【 努力賞 】
【 テーマ:働くこと・職探しを通じて学んだこと】
働ける喜び
北海道  伊 田 純 55歳

 やむを得ない事情で、50歳を目前にして転職することになった。

 大学を卒業してからインドネシアで働き始め、25年近くを東南アジアで過ごしてきた。その間、インドネシア女性と結婚して子どもに恵まれ、ジャカルタに家も買って、そのまま一生を過ごすつもりだった。自分のことだけ考えれば、それも可能だっただろう。しかし、日本では高齢の母が独り暮らしをしていた。さらに、ジャカルタ日本人学校を卒業する子どもが日本の高校へ進学したがった。まさか老母に高校生になる孫の世話を押し付けるわけにもいかない。

 結局、四半世紀ぶりに母国に帰り、新しい生活を始めることになった。なにはともあれ、まず仕事を見つけなければいけない。インドネシアでは日本人の子どもに勉強を教える塾の仕事をしていた。自分が出来ることと言えば、それくらいしかない。

 仕事は簡単に見つかるだろうと、25年の南国生活ですっかり身に着いた楽観性を持って日本に戻ってきた。それに、すぐに仕事が見つからないと、高校へ進学する子どもの学費が心配になる。インドネシアの二倍以上はする物価を考えると、いつまでも無職のままでいるわけにはいかない。

 ところが、案に反して仕事はなかなか見つからなかった。就職活動には時期が悪すぎたうえに、やはり年齢が足枷になっていた。塾や予備校の採用試験を受け、何度も面接に足を運んでも、採用までには至らない。そんな日々、札幌駅の構内を足早に歩く背広にコート姿の人たちが羨ましくてたまらなかった。あの人たちには、これから仕事をする場所がある。毎朝、こうやって出勤できる仕事場を持っている。ただそれだけのことが、なんと幸せな生活に見えたことか。

 そんな状態で一か月が過ぎた。三月の初めに子どもの高校入試があり、吹雪の中を送っていき、校門で見送ると不覚にも涙が出た。この子のためにも稼がなければいけない。そのあとハローワークに寄ったが、思うような求人は見つからず、肩を落として一人で帰宅した。入試から帰って来た子どもは「たぶん大丈夫」と報告した。それを聞いて決心した。仕事を選ぶのはもうやめよう。工場でも作業現場でも何でもいい。健康な身体があるのだから、肉体労働だってできるはずだ。そう覚悟を決めると、精神的には楽になれた。

 そして3月11日。その日、私は次の日に受ける試験のために図書館で勉強していた。これで塾業界の求職は終わりにしようと考えていた。最後まで全力を尽くそうと勉強していたのだ。そこに地震が起きた。揺れ自体はたいしたことはなかったが、今まで経験したことのない長い揺れが続いた。

 次の日、日本じゅうが大騒ぎしている時に、ようやく私の就職活動に終止符が打たれた。予備校の講師として採用されたのだ。日本に帰国してから一か月半が経っていた。苦しい日々だった。それも終わりだ。震災で被害を受けた人たちには申し訳ない気持ちでいっぱいだったけれど、その日は嬉しくて駅から息を切らせて家まで走って帰ったものだ。

 働ける喜びに胸躍らせながら朝の札幌駅を憧れていた通勤客の一人として歩けるようになった。毎日働けるだけで嬉しい。仕事があるのはなんと幸せなのだろう。

「帰る家があって、家族が待っている。ただそれだけのことが、どれほど幸せなことだったのか、今はっきりとわかります」

 東日本大震災の被災者で、家を流され、家族を失った小学生がテレビで話していた。

 自分は恵まれている、とつくづく感じた。自分を支えてくれる家族がいて、自分が養うべき家族がいる。働く場も与えられた。これからばりばり働いて、家族を支え、社会を支え、日本を支える、と決意を新たにした。

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