【 佳  作 】

【テーマ:多様な働き方への提言】
自信を取り戻して
島根県  吉 岡 裕 也  23歳

 「吃り(どもり)」というのを、皆さんは聞いたことがあるだろうか。

 正確には「吃音」といい、子供の頃に「お、お、おはようございます」と語頭が何回も続いていた子や、話すときに体を叩いたり顔を歪ませたりして話していた子が記憶の片隅にある方もいるのではないか。私もその一人だ。私の場合は後者の方で、体を叩いたり、顔を歪ませたりするこの行為は「随伴運動」と呼ばれている。物心ついた頃から私は吃音症であり、そうであると自覚するのにかなりの時間を要した。

 吃音を自覚したのは高校生の頃で、その時まで「あれ?言葉が出てこないな、まぁいいか」くらいの気持ちだったのだが、授業の本読みを指名されて読もうとすると言葉が出てこない。いつもなら普通に話せていたのだが、その時ばかりはいつまで経っても言葉が出なくて、周囲が騒然とした。あの瞬間は今でも忘れたくても忘れられない。その時のショックで、私は自分への自信を無くし「うつ状態」と診断され、何ヶ月か不登校の時期を過ごした。

 私は今、東京に本社を置くIT企業の支社でデータ入力のアルバイトスタッフとして週5日勤務している。今でも吃音は出るが、充実した日々を過ごしている。どうしてこの仕事を選んだのかといえば、もともとPCの扱いに多少は慣れていたのもあるが、本音は「電話応対なし」という求人票を見たからだ。吃音者にとって電話応対で悩んでいる人は決して少なくない。私自身も、何度も職場を変えその度に電話応対に悩まされていた。接客はもちろんだが、どの店舗でも必ず電話応対が必要だったのだ。電話の音が鳴ると心臓の動悸がして、電話を取ると言葉に詰まり、相手側から催促される。その度に焦り、更に悪循環に陥る。そして上司へ取り次ごうとして「○○さんからお電話です」の「○○」が詰まって出てこない事が度々あった。そういった類の事が何回もあり、自分への自信を再び無くし高校の頃に発症した「うつ」を再発したのだ。

 それから、今のアルバイト先にたどり着くまでおよそ2年近くを要した。私にとって長い長い時間だった。母親に「もう自分はいないものとして欲しい」と言ったこともあった。家出、自殺を考えたこともあった。しかし、そうした気持ちを排除したくて隔週に1回カウンセリングを受け、認知行動療法を受けながら、自分の将来を必死で模索した。障害者求人も視野に入れていた。

 だが、今働いているのは一般企業の一般求人である。その直前に利用していた「障害者職業センター」という施設で私は就労支援を受けていた。職員やカウンセラーの方にも恵まれ、私は徐々に自信を取り戻していくことができた。そして前述の求人票を見て応募し、面接時には私の他に2名おり、私はその時に面接で不利になるとは思ったが正直に今の上司に精神障害と吃音がある事を伝えた。それでも尚、私1人だけを採用して頂いたのは本当に感謝の念に耐えないし、今でも上司、そして当時の職員やカウンセラーには頭が下がる思いだ。

 そうした経験を経て、私が伝えたいのは「足るを知る」ということだ。私自身、今の環境で十二分に満足しているしとても充実した日々を過ごせているが、もっとスキルアップして今の会社に貢献できる様になりたい、という思いも持っている。昔の自分からは考えられない思いである。今の会社で、色々な仕事を任せてもらえるようになり、ようやく自分の居場所、必要とされている場所を見つけたと思っている。今までは背伸びして、吃音を治すために荒療治として接客業に挑戦していたが、今は寧ろ一生付き合っていく覚悟で仕事をしている。これからの人生に、きっと過去の経験が活きていくと私は信じて疑わない。私は他の誰よりも傷つき、考え、学んできたのだから。

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