【 努力賞 】
【テーマ:働くこと・職探しを通じて学んだこと】
蜃気楼の夢
東京都  緒 田 鞠 子  20歳

私はそこそこ有名な私立大学に通っていますが、同期の連中は皆負けず嫌いばかりです。それもそうでしょう。高校時代、机にかじりついて目にメラメラ炎を燃やしながら必勝の鉢巻を巻いて、合格をもぎ取ったのです。そして彼らは自分たちの努力を誇り、都会の摩天楼のようなプライドを大気圏に向けて突き刺してきたのでしょう。そういった、所謂エリート大学生たちの目指すところは、当然霞が関や六本木です。遊ぶことを放棄して努力を重ねてきたお偉い自分たちは、怠惰を貪ったせいで貧しくなった馬鹿な庶民を見下しながら、うまいかつ丼を領収書で食べるのがふさわしいのです。

 私も以前までは同じでした。絵に描いたような「成功」人生、「幸せ」、そんなシナリオ通りに生きることを期待されてきたし、誰かに認められたい、誰かを打ち負かしたい、という目標だけで盲目に生きてきたのです。そしてそれを叶えるのは、ほかでもない、「皆が羨むような職業」です。皆が羨む職業に就きたい、そのためだけに勉強し、努力し、大学に入りました。

 しかし大学3年に進級し職業を選ばなくてはならない局面に立ち、様々な職業に触れる過程でその考えを大きく変えざるを得なくなりました。それは、「皆が羨むような」職業なんて、もうこの世にはどこにもないということです。無能な「エリート」の私たちは近年になって社会の風潮に見放され、呆然と立ち尽す羽目になりました。収入?業種?そんなものは「みんな違ってみんないい」のです。言い方を変えれば、誰かにとって素晴らしい職業も、ほかの誰かにとっては評価に値しないのです。私たちは今はもう無い「社会的ステータス」という蜃気楼を追い求めて空虚な努力を続けるただの馬鹿でしかなかったのです。

結局人の生き方に貴賤はなく、時代が変わって人々の理想の人生のあり方も多様化しています。私も、全ての職業と、役割に敬意を表したいと思っていますし、そうすべきだと心がけています。分かっているのですが、「みんな違ってみんないい」風潮を前にすると時々とてもやるせないのです。周りの大人たちは幼いころの私たちにキャリアや学歴の大切さを説き、好きなことを我慢させ、勉強をさせ、いい点数を取ると褒めてきました。それが今や、手のひらを返したように「収入は関係ない」、「好きな仕事に就け」、「キャリアを誇るな」、「学歴は無意味だ」、『夢を持て』と、まるで自分たちが大層な名言を口にしたかのような厳かさで言うのです。

「やりたいこと」を我慢して、やりたくないことを努力してやるのが私たちの生き方で、美徳でした。やりたいことをやるのは、努力なんかじゃありません。そんなものを認めたくはありませんでした。そんな私たちに今更「やりたいこと」があるわけがありません。自分の将来を確信してひたすらに走ってきたのに、今やそんな私たちの姿は誰も見てはいないし、誰も評価しません。それどころかそんな生き方は無意味だと言わんばかりに「夢を持たない若者」と批判したりもします。私はこれからの長い人生を前に目的を見失い、働くことの意味すらもう見えないのです。

私にとって職探しは、今まで自分自身ときちんと向き合って来なかったことを痛感させられ、とても骨が折れます。私は何を目指して働けばよいのでしょう。私たちが働くことの意味は何でしょう。私たちの幸せはなんでしょう。そんなことは以前は社会が教えてくれたでしょう?私たちにも教えてください。そしたらまたその通りに努力しましょう。だって私たちにはそれしかできないのですから。

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