【 努力賞 】
【テーマ:働くこと・職探しを通じて学んだこと】
やりたいことと、出来ないこと
東京都  あさぎ  22歳

就職活動の際、私は「好きなことに関わる仕事」ができる会社を選んでいた。その好きなこととは舞台である。中高大と演劇をやっていたこともあって、エンターテイメント業界を中心に受けていた。

 エンターテイメント業界というと、とにかく激務であるというイメージが強い。身近な情報源であるテレビやインターネットで言われていることであるから、私がこの業界を目指していることを友人に伝えれば「大丈夫なの?」とよく心配された。私は大学生の間芸能事務所でアルバイトをしていたのだが、社員の人と一緒に朝方まで仕事をすることも少なくなかったので、激務であることは承知していた。アルバイトについても友人からは苦い顔をされたが、私自身は少しも辛いとは思わなかった。若さもあって、何をしても楽しかったのだ。そのため、今までも大丈夫だったのだから、これからも問題ないだろうと思っていた。アルバイトの範囲を超えた業務と学業を両立できていたためか、変な自信があったのだ。その自信のせいか、半年の就職活動の結果、私は希望していた会社から内定をもらうことができた。このことが私をさらに調子づかせて、辞退するという選択について考えることもしなかった。

 しかし私は今、あれだけ希望していた会社を辞め、別の仕事をしている。会社に在籍していたのはわずか二ヵ月だった。

 退職した理由は、病気が発見されたためだ。命にかかわるものではないけれども、放っておけば生活する上で必要な機能が失われてしまうと言われたのだ。早めに手術をする必要があった。通常であれば、少しの間休職して手術をし、動けるようになったら復職という手段をとるだろう。現に上司からはそのように勧められたが、私は復職することは無理であるとわかっていた。その時点では症状は軽いものだったが、それでも一番大事な業務ができなくなっていた。それは致命的な欠点であった。

他の部署に異動する手もあった。一瞬光が見えたが、それもすぐになくなった。この病気は後遺症が残る可能性がとても高いのだが、それを抱えながら激務と言われる業務を責任もって遂行することは難しかったからだ。入社後、研修も数日ですぐに現場に配属され、定時なんて存在しないかのように誰も口に出さず、エンターテイメントなのだから土日はなく働くだけの毎日だった。平日に取れると言われていた代休も、誰一人として取っていない状態だった。それを知りながら入社したのにも関わらず、そもそも発症のきっかけは知るために働いた大学生活中の不摂生であったので、全くもって自業自得である。

 今の私が職を選ぶ基準は、「自分でもできることがあるかどうか」に変わってしまった。何をしたいかではなく、何ができるかを考えるようになったのだ。日常生活でも未だに不便を感じることがあるが、それでもできることをやれば達成感があった。働いていた時に比べると小さな達成感であるけれども、今はそれを何よりも大事に思っている。このことについて、良かったねと言う人もいれば、可哀想だと言う人もいる。私自身、考えが浅はかであったと思うし、会社を辞めたことに後悔はないかと言われれば、無いと言い切ることはできない。やはり好きなことに関わる仕事に未練があるのだ。

 しかし私は、これはこれで運が良かったのかもしれないと思っている。大学時代にやりたかったことに無我夢中で取り組むことができたから、未練を持ちながらも引きずられずに別の仕事ができているし、アルバイトに関係する仕事であったから入社後に少しの余裕があって、寸でのところで体の異変にも気づくことができた。

人の視点は様々であるから、批判的な言葉を投げかけてくる人もいるけれども、その度に笑い飛ばすことにしている。決して私が楽天的なのではない。出来ないことはできないと認めて、次はどんなことに挑戦しようかと悩む自分が、少し好きなのだ。

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