【テーマ:さまざまな働き方をめぐる、わたしの提言】
日の丸屋という生き方〜
  非正規の若者たちよ胸を張れ!
長崎県  五島塩二郎  55歳

4、5年前のこと、となりの集落の道沿いにあるごく普通の一軒家。その玄関に突如として日の丸が姿を現すようになった。祝日だけではない。毎日である。「一体何があったのか?」通るたびに想像を膨らませた。

「お宅の商品は絶品と聞いております。」ある講演の帰り際、見知らぬ親父が声をかけてきた。歳は還暦前後、ちょびひげを蓄え、とても愛想がいい。商品を褒められて悪い気はしないがあまりにも調子が良い。適当に受け流していると「日の丸屋と申します。」名刺を出してきた。ぎょっとした。名刺の真ん中に大きな日の丸が描かれている。「一度遊びに来てください。日の丸が目印です。」日の丸?まさかあそこの?再び名刺を見るとあの住所になっている。「くわばらくわばら。」急用を思い出したと言ってその場を離れた。

数か月後の早朝、その家の前を車で通ると数人がコーヒーカップ片手に談笑している。「一体何事か?」車を停めて中を覗き込んでいるとあの親父と目が合った。すぐに出てきて「どうぞどうぞ」と中へ案内する。ラジオ体操の後みんなでお茶をしていたという。通された部屋は物置をリフォームしたととのことで、ちょっとした喫茶室になっている。出入り自由で、みんな勝手に入ってコーヒーをいれ勝手に喋って帰るのだという。突飛な暮らしぶりに興味津々、話は親父の暮らし方に及んだ。

ここ五島列島で生まれて、高校に進学するとき島を離れた。大学卒業後、長崎市内の保険関連の会社に就職。持ち前の社交性で営業成績を上げた。3年後に結婚、3人の子を得た。あと4年で定年というとき一人暮らしの母親の認知症が進行。悩んだ末に早期退職、仕事をもつ妻を長崎に残して島に戻った。

母親との同居がはじまった。ご近所付き合いも再開した。昔と何も変わっていない…。いや、何か足りない。日の丸である。昔、祝日になると日の丸が軒を連ね、見るたびにワクワクした。それが故郷の原風景となった。そんな故郷をもう一度見たい、そんな思いから日の丸をあげた。毎日あげた。

いろんなことをやった。数人で始めたラジオ体操は集落中に広まった。ハモニカの会に入って施設を慰問した。幼いころ楽しみだった「重開き」という風習を復活させた。そのうち仕事のオファーも舞い込んだ。施設介護、文具の配達、旅行プランナー。全て時間給を条件に引き受けた。「本業は何?」周囲に訊ねられたら「日の丸屋」と答えた。個人事業主というわけだ。私事も公事も仕事「日の丸屋」という屋号のもとで厳選し遂行した。

「収入が低い」、「雇用が不安定」。非正規の若者に寄せられる同情の声は、ある瞬間「非正規は半人前。結婚なんて無理。」とバッシングに変わる。しかし、それは農家や漁業者など個人事業主も同じこと。収入は不安定だし破綻だってある。それでも非正規だけを問題視するのなら、非正規の若者たちよ、「日の丸屋」を見習え。自分の屋号を見つけ、事業主として振る舞うのだ。

日中のピザの宅配も、週末のコンビニのバイトも一つの本業。それが不安定、低収入だからといって卑屈になる必要がどこにあろうか。人は大人になってからも成長する。成長すればやりたいことも変わる。何も二十歳そこらで選んだ仕事に一生縛られる必要はない。子ができれば仕事から一時撤退、子育て事業に専念するのも選択肢の一つ。ライフステージに応じて働き方を変える、むしろ、非正規こそ主体的な生き方といえないか。

さて、その「日の丸屋」である。来年、長崎に住む家族の元に帰ると言い出した。母親が施設に入り同居が不要になったことが理由というが、母親や故郷の次は自分の家族、という思いもあるようだ。「日の丸屋」のこと。次の場所でも日の丸を揚げ、その時々の自分にもっとも相応しい役割を果たしていくのだろう。誰にも遠慮は不要である。それが「日の丸屋」という生き方なのだから。

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