【努力賞】
働くことの意味
兵庫県  齋藤恒義  68歳

深夜。工場長の案内で製造現場を見学して回った。前日の面接で決まった新しい職場は、弁当・仕出し料理の製造工場だった。

調理師になって以来、レストランのコックを皮切りに喫茶店、駅ビル内のスナック喫茶、郊外にあるレストラン喫茶と、十数年以上飲食関係の仕事に従事してきた。その後、自分の店を持ち独立、十年近い経営の後、子供のアレルギー症状の重篤化が理由で、閉店を選択せざるを得なかった。

店をやめても遊んではいられない。小学生までの子供が四人、一番下が赤ん坊で妻は育児中。稼ぎ手はわたししかいなかった。すぐハローワークを頼った。

長く調理畑の仕事しかしてこなかった反動なのか、これまでやったことのない仕事に憧れがある。それを実現するいい機会だった。

最初に紹介されたのは、新しく発足する2×4工法の建築会社。神戸大震災の後、地震に強い工法として注目を浴びた。社員みんながゼロからの出発という公平なスタートを切れるのも、仕事を選ぶ決め手となった。

入社早々、新工法の本場、雪国新潟へ研修に派遣された。半月に渡る新潟滞在で新工法に関する法規習得をはじめ、パネル製造の実地特訓を受けた。すべてが初体験。仲間とも打ち解けあい、面白くて堪らなかった。

しかし、新会社は半年で行き詰まった。経営者が姿を消し、会社の存続の望みは絶たれた。また仕事を探す羽目に、それも急がなければならない。家族への想いが背中を押した。

懲りずに未体験の仕事優先で得たのが木工会社、典型的な三Kで、きつい汚い危険な仕事だと聞かされたものの、それを承知で頑張ってみた。三Kといっても、働く人間の意識の差によって程度は分かれる。過酷な作業環境で頑張る同僚の姿を励みに、打ち込んだ。

入社したのが梅雨時。夏日が続き始めたある日、熱中症で倒れた。血圧の異常も判明し、薬による治療を余儀なくされた。健康不安はやる気をみるみる低下させた。

「今の仕事好きになれないのに無理し過ぎてるよ。これ求人広告。ちゃんと考えてみて?」

妻は夫の苦悩を見逃さなかった。妻が推した求人は、地元にある弁当仕出し料理の製造工場だった。

『調理師急募』とある。(調理師か!)私の中にモヤっていた迷いは消えた。

「◯◯さんでコックをされてたんですね。あの名店で十年の経験がおありだなんて。ぜひ、その腕をわが社で存分に奮ってください」

面接でこんなに歓迎されたのは初めてだった。調理師でひたすら積み重ねたキャリアを認めてくれる。何もいうことはなかった。

木工会社に退職の旨を伝えると遺留された。人手不足の業界である。しかし、同年代の社長は、理由を話すと納得してくれた。

「あなたの選択は正しい。僕らの年代で新しい仕事を開拓するより、昔取った杵柄を生かせる仕事がベストでしょ。私もあれこれ仕事をしましたが、結局小さい頃から手伝わされていた家業に舞い戻りました。それが正解で、いまがあります。◯◯さんも、自分の身についたものが発揮できる仕事をやる方がいいな」

ゴーン、ゴーンと機械音がしきりと響く仕事場だった。配属される調理部門は、日系ブラジル人や中国研修生の姿が目立つ。別に違和感はなかった、寄り道した建築会社や木工会社に外国人スタッフは普通だった。

「アミーゴ、よろしくね」

紹介された、同僚になる日系ブラジル人の笑顔と気さくな挨拶が、一抹の不安を払拭してくれた。

(ここならやれる!)

新しい仕事はこれまでのキャリアが生きた。もちろんそのキャリアのなかには、中途半端に終わった経験も入っている。失敗や挫折体験は、新しい仕事のこやしになってくれた。

定年まで勤め子供を無事社会に送り出せたのは、どんな時も働く意欲を失わなかったからだった。まともにぶつかれば必ず応えてくれる、それが仕事だと今は確信している。

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