【努力賞】
【テーマ:仕事をしたり、仕事を探したりして気づいたこと】
“お金”、そして“やりがい”
埼玉県  田原亜侑  29歳

私は現在、高校で国語を教える講師として働いて四年目となった。大学院時代に結婚し出産した後、子どもが一歳の時に、教員としてデビューしたという経歴である。他人から見て私の働き方がどう思われるかということはさておき、家庭と両立しながら働けていることに私自身は満足している。専業主婦として過ごした二年間も、私にとっては大切な時間であった。赤ちゃんのお世話に追われながらも幸せな生活を送れたのは、家族のおかげである。しかし、若く結婚したため経済的にはギリギリの生活だった。金銭的な事情により出来ないことがあると、つい自分や我が子が惨めに感じられた。年金制度の崩壊など、日本の将来に起こりうる最悪な展開を考え過ぎて、勝手にひとりで落ち込むこともあった。お金があれば安心だと言いたいわけではないが、貯蓄という目に見えるものがないことによる漠然とした不安が大きく影響していたのだと思う。

現在は夫の扶養を外れ、自分で保険料などを納めている程度の収入を得ている。子どもが小さいのに扶養を外れて働くという選択を決意するまでは迷ったが、給与明細を確認すると自分で稼いでいることにほっとするような気持ちが芽生えているのに気が付いた。そして、仕事と子育てと目の前のことを精一杯やっているうちに、不思議と漠然とした不安が薄れていった。毎日疲れることも多いけれど、それは一生懸命生きていることなのだと思えるようになった。

私が勤務先の高校で担当している授業に、小論文演習というものがある。現在、多くの推薦入試において小論文は必須である。生徒が入試で書くための小論文の指導や、大学生になってからもレポート作成に活かせる文章の書き方を指導している。就職活動でも、必要書類に文章を書く機会は多い。そのため、小論文の訓練とは生徒が自らの進路を切り開くための大きな武器となる。こうした文章指導の需要は高まる一方で、添削などの作業が多く必要なため、この授業を担当することを嫌がる教員も多い。しかし私は、この授業がとても好きである。もちろん、おかしな文章を読まされて少し困ってしまうこともある。主語と述語が対応していない文章、副詞の使い方が間違っている文章、一文が長すぎる文章、などなど。こうしたポイントは最初に授業で教えてから文章を書かせているのだが、それでもおかしな文章が生まれる。私が勤務する高校のレベルはちょうど真ん中というところだろうか。そうした真ん中のレベルの高校生が書ける文章は、もしかしたら世の中の皆さまが想像するより酷いものが多いかもしれない。「私は買い物に行ったりしたりするのが好きだ」という、少し変な文章を書いてくる生徒もいたほどだ。それでも私がこの授業が好きなのは、文章を書くという表現行為に取り組む生徒達を目の当たりにし、気付いたからである。それは、私の教え子達が、“将来へ向かって歩んでいるのだ”ということだ。彼らが社会人となって働くことで形成する将来は、私の生きる将来でもある。私は、生徒が自分自身の目指す進路に向かって努力している姿に励まされていたのだ。こうして私は教員として働く中で、仕事の責任とは「自分の出来る範囲で自分の能力を還元すること」だと思い至った。私の文章指導という能力が、生徒の進路に大きく関われていることが何より嬉しかった。自分が“嬉しい”という“やりがい”を得ていることに気が付かされたのだ。

さて、“やりがい搾取”という言葉が流行っているのをご存知だろうか。「やりがいがあるから賃金は低くても構わない、残業も仕方ない」というものだ。もちろん私は、企業のそうした搾取には反対である。しかし私は、社会に自分の能力を還元することに“やりがい”を見出せる働き方をし続けたいと願っている。だからこそ、“やりがい”を“搾取”して摘み取ってしまうような社会問題は見直されるべきものだと強く感じているのだ。

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