【佳作】

【テーマ:仕事をしたり、仕事を探したりして気づいたこと】
心にはいつも、石ころを
大分県 kono 26歳

「当時すでに嫁がいたけど、40代のころは石ころに絵を描いて売っていたよ」

その前は、百円均一で購入したTシャツに油性ペンで絵を描き、観光地で売っていたという。山に浮 かぶ秋刀魚をリアルに描いたTシャツが飛ぶように売れ、思いのほか儲かったと嬉しそうに笑う。

書家、兼フォトグラファー、兼映像クリエイター、兼リノベーション作家、兼看板屋兼石ころアーティ スト、兼...肩書きを挙げ始めればキリがない、目の前の男性作家。しかも各分野で評価される化け物だ。50代の今もセンスを磨き続ける彼に会おうと、九州の奥地までいろんなひとがやって来る。最近の活躍 しか知らなかった私は、ほんの数年前まで製作されていたという石ころアートへ思いを馳せると同時に、 働くって何だろう、と考え始めた。

私は中学校の3年間を不登校で過ごした。その後入学した高校で恩師に

「あなたは教員に向いているかもね」

と言われ、ピーン、ときた。自分の力で子どもを養える母親になりたい。自分のように苦しんでいる子 どもを救える大人にもなりたい。ずっとそう考えてきた私にとって、教員という職業はぴったりだ。迷 わず大学への進学を決めた。

大学では小学校の学習内容から勉強し直した。移動時間は暗記の時間。部屋の壁には覚えたい単語と一緒に

「眠るのは悪」

などの注意書きもベタベタと貼る。すべては教員になるためだ。他のひとが中学・高校時代にやってき たことを今やっているだけだと考えたら、勉強は苦しくなかった。

猛勉強の末に手に入れた教員の仕事だったが、わずか3ヶ月後にでうつ状態に陥った。ほかの先生は 当たり前にできることが、私にはひとつもできなかった。自分の授業なのに毎時間遅刻と忘れ物をする。当時の日記には「頭の中が常にパニックかぼーっとしている状態」「片付けができない」などの悩みが書 き綴られた。23歳のときに発達障害「注意欠陥/多動性障害」と診断され、その後退職。職を全うでき なかったことのショックが大きく、発達障害の診断には驚かなかった。

失意のなか帰郷すると、予想に反し仕事にも友人にも恵まれた。だがこの間、私のもつ特性はほとん ど変わっていない。例えるならコント番組のセットが回転するように、私を取り巻く環境だけがぐるり と反転したような印象だ。教員時代に苦労したパニックにも似た思いつきは、開発のひらめき力として 発揮することで随分生きやすくなった。

「人生は何が起きるかわかりませんよね」

と言いながら男性作家の話に意識をした。

田舎の良いところは、絶対的にひとが足りないことだ。何か面白いコンテンツが欲しいときは、自分 が作り出さないと存在すらしない。だがコミュニティが小さい分、行動を起こす際の手順は少なくて済 む。

先程の男性作家は一見ただのおっさんで、落書きのモデルにもってこいだ。彼のシュールな似顔絵を 描いて遊んでいたら、その2日後にはTシャツになっていた。道端で落書きをTシャツにする冗談を 言ったところスキルや設備を持つひとが名乗りを上げ始め、あっという間に印刷することに。しかもそ の直後に買いたいという人まで現れる始末だ。

また休みの日に絵を描いて遊んでいたら、今度は知り合いからホームページの挿絵を依頼された。プ ロのイラストレーターであふれた町なら恐らくなかった、田舎ゆえにいただけた仕事である。何が起こ るか本当にわからない。

逆算して完璧な人生設計をしたとしても、その環境が合わないことはある。自分の仕事を全うできないのは本当に苦しい。

「今の自分がいいと感じることに正直でいよう」

気づいたら、そう考えるようになっていた。大丈夫。もし困ったら、石ころに絵を描いて売る方法を 聞けばいいのだから。彼の連絡先は消さないようにしよう。

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