【 佳   作 】

【テーマ:現場からのチャレンジと提言】
生きている証
愛知県  浅 井 洋 子  81歳

私にとって働くことは日常そのものである。

結婚して57年。奥三河の山村に嫁いでから、夫が名古屋の高校に勤務することになり、通勤のため、豊橋で下宿屋に間借りして結婚生活をはじめた。

奥三河には60ヘクタールほどの持ち山があり、姑が一人で実家の留守を守ってくれていたので、豊橋から日曜、休日は山仕事のために、当時は電車(飯田線)に乗って2人で往復4時間かけて山仕事に出かけた。

その頃の山林は、現金収入の無い山村にとって、木材を売って収入があったので「山持ちはいい」と山林は財産として人から羨ましがられもした。

山仕事をしていれば食べていけたのに、一人息子の夫がサラリーマンになったので、姑を残し、親と別居生活をしたことは「親を捨てた」と親戚などから非難を受けた。

夫は幼いときから植林など山仕事をしてきた使命感もあっただけに、山の管理を疎かにできないと、それこそ、夫は奥三河まで往復しながら休日なしに働き、私もまさか、こんなにきつい仕事をするとは夢にも思っていなかったので、腰にナタとノコギリをつけ、長い柄の下草刈りカマを持って、夫の後をついて、山に登って行くだけでも大変だった。

昔の山村では、嫁は手間替わりと言われていた時代だけに、村を離れて暮らしているので、集落の人たちが私を見る眼は厳しく、ハチに刺され、顔がかぶれたりで、何でこんなことをしなければならないのかと泣けてきて、若いときは、逃げ出したい思いも多々あった。

姑には、持ち山を持つために働いてきたことの苦労話をこんこんと聞かされ、下草の刈り方などしごかれていった。

3人の子どももでき、長男は小学生の時から植林などの山仕事もさせたので、私も必死で働くようになった。働いているうちに、そのことが当たり前になり、木を育てる愛着も生まれ、いまでは、山仕事はライフワークになり、私の宿命的使命として、できるなら息子に繋げたいが、山林では食べていけないので、息子に負の財産ともいえる山林を押し付けるわけにいかない。

外材の輸入と共に、林業はすたれていき、後継者も収入も無く、いまでは、民有林は放置され、荒廃していき、森は瀕死の状態になっているともいえる。

個人の力では守り切れるものではないが、わが家だけはの自負で、夫の定年後は2人でボヤきながらも山仕事に励んできた。

夫が7年前から、うつから認知症になり、仕事ができなくなったので、山仕事は、クマなどの野生動物や山の地形が日々変わるので、1人では危険なので、夫の看病などで働く機会も少なくなってきた。

将来のことを思うと、息子たちに重荷になるので心配しているが、昨年の夏、夫も亡くなり、姑が住んでいた古民家もあり、ゴミの始末も片付き、空き家バンクに登録して売りに出すことにした。

売れるまでの屋敷の草取り、畑もあるので車の運転には安全第一に、1時間かけて奥三河に仕事のために通っている。

いま、地球温暖化の危機が叫ばれ、森の大切さは分かっていても、森を守り再生していくための具体策がなく、日本材が売れないことが嘆かれる。

日本の山林を守るために日本材の使用奨励の政策を望み、プラの海洋汚染が深刻化している今日、木の製品はすべて土に返り肥料になるので、バイオマスはじめ、土に返る木材の普及を国が本気で考えてほしいと願う。

若い人たちにも森の大切さを分かってもらい、国が森の再生のために若者にも期待できるような施策を是非とも実行してもらいたい。

谷川のせせらぎや、鳥の声にしばし癒され、八十路を超えても、わが家の森を守るために私は働く。働くことは私が元気で生きている証でもある。

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