【 公益財団法人 勤労青少年躍進会 理事長賞 】

引きこもりだった僕が働ける理由
神奈川県  伊佐谷 良秋 29歳

初めて働くことを意識し始めたのは中学生の頃だった。小学3年生の頃から引きこもり、高校進学も怪しい状況だった僕に働ける職場なんてあるんだろうか。そう考えて絶望していたのが始まりだった。14歳の夏のことだった。
 インターネットで検索して出てくる「中卒 仕事」の内容は力仕事が多く、自分にとっては縁遠い世界のように感じられた。
 家から一歩も出ない生活を何年も続けていると、体力が落ちてくる。笑うと頬の筋肉が痛み、少し話すだけで喉がかすれて痛む。100mも歩けば貧血になるし、気持ちが落ち込んでどうしようもない日は、一日中寝て過ごすことだってあった。朝聞こえてくる通学途中の子供たちの声は心を揺さぶって、夜、人気のない静寂の時間帯が唯一の安らげる時間だった。
 そんな虚弱体質の自分にできる仕事があるのだろうか。このまま、自分は生きていくことができるのだろうか。そもそも生きていていいんだろうか。それが、当時の自分にとっての大きな課題だった。


転機のきっかけは、親が連れて行ってくれたカウンセラーさんの一言だった。
 「君は大学向きの人だから、大学に行けば人生が変わるよ」
 冷静に考えるとよく意味のわからない言葉だけれど、その一言は僕にとって生きる目標となる灯台になった。体力勝負の仕事はきっとできないけれど、大学に入れば選べる仕事の選択肢が広がる。引きこもって自ら閉ざしていた未来への扉が、たった一言で開けたような気持ちだった。それから僕は定時制高校に入学をして、同じように困っている人の助けになれればと思って福祉系の大学に入る道を選んだ。


何年も引きこもりを続けていた人が急に外に出ることは、とても難しい。人生の早い段階で引きこもった僕には、友達と楽しく遊んだり、誰かと一緒に作業をしたり、時には喧嘩したりなんて経験は縁遠いものでもあった。同年代の人たちと接していても隔世の感が常に付きまとう。
 それに加えて、体力の問題もある。週5日、毎日どこかに通い続けることは、実はとても体力の要る作業だ。引きこもるくらい、生きるか死ぬかの瀬戸際の中で毎日を必死に生きている人たちは、1日を生き抜くだけでもかなり体力が必要になる。それは僕にとっても同じで、毎日を必死に生きようとすればするほど心や体は疲れ果て、翌日起きることをしんどくさせた。
 身体は外に出ていても、心は引きこもりの頃の自分のままだった。心の時計の針はいつまでも小学3年生の頃の自分のままで、それは大学に入ってからもしばらくずっとそのままだった。


それからまた転機が訪れた。精神障害のある方の通う居場所のような施設に実習で行った時のことだった。人とどう接すればいいのかわからない僕のことを、実習先で出会った人たちは慰めて労わってくれた。
 「あなたにはいろいろな道があるから、悩んだ時にはこれしかないって思わないでね」
 いろいろな人から優しい言葉をかけてもらう度に、心の中の氷が解けていくような気持ちがして、時間が少しずつ進んでいくような不思議な感覚があった。
 人として見てくれることの暖かさや、これからを期待して気にかけてくれる人たちが存在することのありがたさが、心を開いてくれるような心地だった。
 「良い支援者になってね」
 その人たちから言われた言葉が、次の灯台の光になった。


今、僕は福祉に携わる職員として働いている。引きこもりが外に出ることは難しい。外に出続けることは、なお難しいことだと今でも感じている。それでも、今こうして僕が外に出続けられているのは、これまで出会ってきた人たちやサポートしてくれた人たちが灯してくれた灯台の光があるからだと思う。
 今、僕は色々な人の話を聞かせていただきながら、一緒に考える仕事をしている。毎日を必死に生きているその人たちが次の灯台の光を見つけられるように。仕事を通してみんなに恩返しをしていけるように、今日もまた灯台の光をめがけて歩み続けている。

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