公益財団法人 勤労青少年躍進会 理事長賞
彼が病気になったのは3番目の子が産まれて2か月目のことだった。
外国人のような深い顔立ちにラクダのような大きな目、豊かな眉毛が特徴的で誰とでも気さくに話す人懐っこい性格の彼は営業マンとして忙しく働いていた。10代で就職し、人を笑わせることが好きで、仕事を楽しくこなし、だからこそエネルギッシュに働いた。努力は報われ30歳にならずして営業所の所長になることができた。しかし、責任の重圧は相当であったのだろう。いつからか表情の乏しい日が続いた。「変だ、変だ」と言いながら本人も私も何が変なのかわからないまま日は過ぎた。
ある朝、彼は仕事に行きたくないと布団の中で子どものように泣き出した。病院に行くとうつ病と診断された。産まれたばかりの長女、小学生の長男と次男、働けない夫、そして私。この先どうなるのだろうと平凡な主婦をしてきた私は不安が募った。私は仕事に就き、食事の準備、掃除、洗濯と日常をこなしながら、彼が何もできない自分を責めて壊れていく非日常を、オロオロしながら見続けた。
8年間という歳月はうつ病を双極性障害へと変化させた。その間彼は、幾度も首に紐を巻き、ハンマーで腕を叩きカッターで切りつけ自身を傷めつけた。季節が変わるように入院や自宅療養を繰り返し綱渡りのような日々を過ごした。それでも体調がいい時は会社に行くこともできた。会社は彼の居場所を作ってくれ、出来る仕事をと配慮をかけてくれた。
だが病気になって10年、彼の自分への攻撃行動が常を逸脱してしまい解雇になった。
小学生の子どもたちも大学、高校の真っただ中になっており、私は、昼は事務の非常勤職と夜は飲食店でのパートのダブルワークに尽くした。
そんな目まぐるしい毎日の中で、私は彼の病気をきっかけに精神病に関心を持つようになった。こころに寄り添おうと産業カウンセラーの講座に通い傾聴を学んだ。「彼を救ってみせる」とおこがましい考えはなくなり、「共に居ること」を決めた。
現在は少しでも障がいのある方を理解したいと知的障害や精神病の方などの日常的なお金の管理をお手伝いする仕事に就いている。通帳を預かり定期的に生活費のお届けや支払などの支援をする。生きてきた環境も違えば価値観も違う、ましてやお金を扱う仕事だ。罵声怒声を浴びることもある。「おまえ絶対ぶっ殺す」そうそう現実では聞かないセリフもきかされるし、包丁を持ち出されたこともある。
それでも頑張れるのは、皮肉にも彼が非日常の抵抗力をつけてくれたからだ。だからこそ仕事に真正面から向き合えるのかもしれない。
障がいのある人ない人関係なく、ひとりの人間としてつきあっていく。彼の病気が私を成長させてくれた。ぬるま湯に浸かっていた私は冷たい水に落ちたからこそ、ぬるま湯があったかいものだと認識でき強くなれた。私は幸せですとはまだ言えないが、彼も子どもたちも私自身もそして、生き急いでいる方みんな無理せずぼちぼちと生きていけばいいと思っている。
幸せは少し遠い方が頑張れるのかもしれない。死にたい日々も決して無駄ではなかった。
明日もがんばろう。