公益財団法人 勤労青少年躍進会 理事長賞
高校へ進学したかったが、担任に「早く働いてお母さんを楽にしてあげなさい」、母からは涙ながらに「頼むから働いて」と言われた。私は6歳の時に父が病死し、母子家庭で苦労している母の心情が分かっていたので何も言えなかった。
中学卒業後、大阪の鉄工所で工員として働いた。会社の寮で、朝6時に起こされ毎晩10時まで働いた。事務員は定時の5時に退社していた。工員の作業着は汗と油等で汚いが、事務員は清潔な制服を着用していた。寮長が事務長だったので「事務員になりたい」と相談した。「そろばんが出来るようになれば事務員になれる」と言ってくれた。
集団就職の時代、寮は20畳に20人の中卒者が寝起きしていた。私は朝5時に起きて、みんなが寝ている間にそろばんと漢字の書き取り練習をした。1年半後、そろばんが早くなったので、寮長に「事務員にしてほしい」とお願いすると、「高校卒でないと駄目だと専務が言った」と断られた。
これを契機に故郷の徳島へ帰省し、経理学校へ入学した。経理学校で1年半学び、簿記とそろばん1級に合格し、晴れて事務員として就職した。だが、中卒なので定時制高校へ通学した。経理事務の仕事は向いていた。事務部門では最年少だったが、記帳業務を任せてくれたので創意工夫し帳簿を標準化して速く正確に出来るようにした。今までは月次試算表を1か月後でないと締められなかったのが、翌月の5日までに作成出来た。1年後、大学へ行こうと決意し、勉強時間を作るために会社を退職した。
鉄工所へ就職した時に専務から日記を書くことを義務付けられ、毎朝提出していた。日記には覚えた仕事や失敗した事等を書き綴り、専務のコメントが朱記されて戻された。この事は私の人生で大きな収穫になった。日記を付ける習慣が身に付いたからである。日記で毎日の反省が出来、新しい知識が確実なものとなり、人生の生き方、考え方、やり方が分かるようになったからである。
定時制高校の4年間は充実し、あらゆる職業の仲間たちとの支流は視野を広め、人生勉強になった。仕事は新聞配達や、零細企業の記帳事務をした。こうして、仕事を通じて自分が何をすべきなのかが分かってきたのである。
経理事務に向いているのでその職業専門家になろうと思った。父もなく、金も無い者が社会で生きて行くためには資格以外ないと考えた。「芸は身を助く」と言うから経理関係の最高の資格を取得する事が1番だという結論に達した。
母に内緒で東京に行き大学受験をした。先輩の下宿先に入り、受験日までと合格発表日まで、土方仕事に行き、入学金を稼いだ。
大学入学後は大学寮に入り国家試験を目指した。彼女が出来たら勉強出来なくなるので壁に墨で「女は敵だ、悪魔だ」と書いて、合格するまで女と付き合わないと決心した。その結果、大学卒業年度で公認会計士試験に合格した。あれから、44年の時が経過した。
私は中卒から社会で働き、どんな仕事が好きで適しているかを実体験してきたから、見つけることが出来たのである。
昨今では誰でも大学へ進学し、職業を探し求めずに良い会社へ就職しようとするから適職を見つけることが出来ずに悩む若者が増えている。職業高校は全国的に少なくなり、ほとんどの生徒が普通学校へ進学している。職業教育が疎かになっている現在の教育制度に問題がある。職業教育を重視して、大学進学にも有利になるような制度にすれば、一生の仕事を見つけられる若者が増えるのではないかと思う。また、働きながら夜学で学ぶ方式が広まれば、仕事を通じて人生が分かり適職を見つけることが出来ると思うのである。