【 入 選 】
台風が、近づいていた。
次第に勢いを増す雨と風の中、ヘルメットからポタポタと水滴を垂らしながら、交通誘導員として私は路上に立っていた。
交通誘導員とは、制服を着、チョッキを付け、ヘルメットをかぶって工事現場に立ち、旗や誘導灯を使って、人や車を事故のないように安全に行き来させる仕事だ。
(早く終わってくれんかなあ)
出てくるのは嘆息ばかり。
何で俺はここでこんなことをしているのだろう? 決まっている。金の為食う為だ。
もう10年以上もやっているが、私は上手い誘導員でも真面目な誘導員でもなかった。そういった者になりたいと思ったことすら、ただの一度とてない。
おまえなんかに、務まるものか。
この仕事に就く時、周りの人間は一人残らずそう言った。他人様に言われるまでもない。この私自身が、誰よりも強くそう思っていた。
非力、臆病、不器用と。いっそホメてやりたい位見事に三拍子揃っている上、色男でもないくせに金も力もない。支えとなり励みとなる妻子も彼女もおらず、若くもなかった。
決して誘導員という仕事に誇りや使命感を抱いていた訳でもなく、断じてこの仕事が好きでなった訳でもない。他に時給千円以上くれる仕事がなかったので渋々この仕事に就き、やめたら食えないので嫌々続けているだけ。
仕事に就いたその日から。いつやめようか? と。そればかり考えている。やる気など一かけらもない。雨風にさらされている今も、そればかり考えていた。
不意に目の前に、一人の女性が立った。かなりの御高齢だ。このひどい雨風の中。合羽を着、手に花とペットボトルを持っていた。
「すいません。少しだけここにいさせてもらってよろしいでしょうか?」
丁寧にお辞儀しながら、女性は、私が立っている場所のすぐ前にある電柱を指さした。
「どうぞ」
訳も分からぬまま頷くと。
「ありがとうございます」
深々と一礼し、女性は私に背を向け、電柱の近くで儀式にとりかかった。
小さな花束を置き、お茶の入ったペッボトルを供える。しゃがみ込んで目をつぶり、手を合わせて、一心不乱に祈り始めた。
低く、聞きとれぬほどの小さな声。時おりかすれ、嗚咽のようなうめきがもれ、小さな肩がふるえているのがわかった。
ああ。ここで誰か縁ある人を亡くされたのだな。多分交通事故で。今日が命日なのかも。
鈍い私にも、ようやく察しがついた。
お子さんかお孫さんかつれ合いか。
きつい雨風をものともせずに供養し、人目もはばからず泣いているところを見れば。
女性にとってよほど大切で、一度失ったらとり返しのつかない、かけがえのない存在だったに違いない。
やがて女性が振り向いた。その両目は、真っ赤だった。予想は確信となった。泣いていたのだ。「ありがとうございました。お邪魔いたしまして、すみませんでした」
か細い声で礼を述べ、小さな肩を丸め、弱々しく寂しげな足どりで女性は歩み去った。
あんな不幸な人を増やしてはいかん、と心から思った。もし俺がその事故現場に居合わせたとしたら、事故を未然に防ぐことができたかもしれない。そうすればあの人は泣かずにすんだかもしれない。
いやダメだ。全然ダメだ。こんな下手クソで不真面目な俺では。たとえその場に居合わせたところで、何もできなかったに違いない。
だけどもうこんな悲しい光景に出くわすのは二度とごめんだ。過去と他人は変えられないけれど、未来と自分は変えられる。もっともっと頑張って、少しはましな誘導員になろう。
どんなに嫌でつまらなくても、いい加減にやっていい仕事などこの世に一つもないのだ。