【 入 選 】
私の場合、学校を選ぶことの延長線上に仕事があった。いやあると思っていた。
(手に職をつけろ。建築士になれ)
そんな父親の言いなりに工業高校に入った。
しかし大工の養成所のような高校を卒業しただけで建築士になれるわけではないと気付いたのは卒業間近だった。資格以前に設計の基本さえ学んでいないと知った。進学しようにも何の準備もしていなかった。父親と相談し、役所に就職し、夜学校に行くことに決めた。何とか建築学科の二部に滑り込めたのは幸運だった。
一本の線に意味があると言うような、高校の授業とのあまりのギャップに驚くと同時に、何もかも新鮮だった。そのうち、(建築は理論だ)と思い込むようになり、頭でっかちの建築馬鹿になっていった。その結果、知識が増えれば増えるほど、自分に設計はできないと思うようになった。
その頃、役所の同僚が40年後の退職金と年金の計算をしているのを見て、彼にとって先の安心も、私にとって先が見える退屈でしかないと思ったが、かと言って私の建築士への道は挫折していた。
学校へ行きその先を目指すための就職であったにも関わらず、卒業しても役所に止まっていた。
そんなある日、建築雑誌に掲載されたある建築家の作品とその論文を見て、もう一度設計をやってみたいと思った。論文は言葉を形にする過程が実に分かりやすく展開されていて、〈建築は理論だ〉などと一人決めつけていた私にも設計ができるような気にさせた。
さっそく建築家のアトリエを訪ねた。
一年待て、と言われた。
私はやっと役所を辞めることを決めた。
同僚や先輩から「もったいない」を何度となく言われた。父親ももちろん反対した。建築士を取ることを条件に役所を辞めた。
一年後の春、アトリエを訪ねると建築家の先生は出張中で、一か月後に戻った。
さっそく別室に呼ばれ、テーブルの上に紙の束を置きながら先生は言った。
「記念に取っておきたまえ」
それはこの一か月間、私がアトリエでした仕事のすべてだった。
そんな私が、ここで5年間修行させてもらった。理論を、要するに言葉を形にする、それを先生から改めて教わった。やっと自分のやって来たことが実現し始めた。
そんな矢先、先生に一週間もかかって書いた図面を目の前で破かれた。
私は悔しくて、アトリエを飛び出した。
けじめをつけるためにアトリエに行ったのは一週間後だった。私の机の上にはテープで補修された図面と、その下に先生の先生である高名な建築家の青図(設計図)があった。試行錯誤の跡が、無数の線となって、その青図に刻み込まれていた。
私は、改めて設計の奥深さを知った。
その後、独立し、今でも設計の仕事を続けている。
今、考えてみれば、無駄なことは何もなかった。
高校の反動で大学でがむしゃらに学び、先の安心を買う同僚を見て、それとは違う自分を発見し、たまたま目にした雑誌から先生と出会え、学校で学んだことが実践に移せ、やっと延長線上に戻れた。
「僕は建築士ではない、建築家だ」と言った先生は資格をもっていなかった。
父との約束通り一級建築士の資格も取ったが、資格は後からついてくるものだと今では思う。
『靴に付いた米粒』
建築士の資格を仲間内ではこう言う
《取らなければ気になるが、取っても食えない》と。