【 入 選 】
小学校の教師として36年間働き、退職して5年目になる。36年間の教員生活の中で、一番心にのこっているのは離島での生活だ。熊本県の水俣市に生れ育った私は、なぜか海への興味がとても強く、自分から海の近くの学校を希望し、そして行くことになったのが離島であった。
私が行った当時、島民84名、世帯数24戸、小学生12名、中学生15名、私は小学校の分校に勤務し、中学生になると島を渡り、自転車で本校へと通った。
島の生活は、都会の人は絶対に味わうことのできないのどかな生活だった。夜は眠りにつくまで、「ザァーザァー」という波の音を聞き、朝目覚めると再び波の音が聞こえる。島の人達のお蔭で島の生活にも慣れ、あと残り2年となった3月末のことであった。
2人の女子中学生が愛知県の紡績工場へと就職していくというのである。船が3回まわって、汽笛を「ボー、ボー」と鳴らした。別れの合図を聞き、私達見送る側も、島を出る中学生も色とりどりの紙テープをしっかりと握る。それはこれまでの数々の思い出を一本の線でつなぎ、この思い出をお互いに決して忘れないようにしようという誓いであるかのように思える。送る側も、送られる側も涙をぬぐう悲しい別れは、私には決して忘れられない辛い思い出でもある。
確かに私達の世代は、集団就職というのは実際にこの目で見たし、金の卵としてもてはやされた時代もあった。しかし、なぜ28歳の私より13歳年下の中学生が今なお就職していかなければならないのか、私も大学の4年間は、朝、新聞と牛乳を配達し、夜は、家庭教師をしなければならなかった苦学生ではあったが、この島に生れ育った子ども達の現実の厳しさをこれ程、思い知らされたことはなかった。
この悲しい別れを除けば、島での生活は島全体が家族同様の生活をし、私達4人の教師も島の中に溶け込み子ども達と一緒に学び遊び、親の願いや心配をこれ程近くで接することができたのは、私にとっては貴重な体験であった。
島の中ではお互いに助け合わなければ、生活は成り立たなかった。船に乗り対岸まで渡してもらう時は私達がお世話になり、島にはお店がないので、車で買物に行く時は、私が車を運転してやることで協力した。アルコールが飲めない私に、最初は砂糖を入れ、徐々にアルコール分を強くして、酒が飲めるようにしてもらったのもこの島の方のお蔭だし、この島の暖かい気候を利用して、作業訓練で障がいを改善しようとしていた団体の人達とも交流し、私は島を出た後、熊本大学に入学し、特別支援教育の免許を取り、残りの教員生活を障がい児教育へと思い立ったのも、この島での強い影響があったからだ。
「働く」ということは、私が水俣に生れ育ったからの海であり、自分が学生時代にアルバイトをし、苦しい立場や生活の方々に目を向けてきたからの障がい児教育等、自然の中の私達の力の及ばない不思議な力にも左右されている気がする。私達は、それぞれに与えられた力を信じ、それを受け入れて真面目に生きていくしか道はないのではないか、それがその人を最大限に生かす生き方ではないのか、と私は思う。