【 佳 作 】

【テーマ:仕事・職場・転職から学んだこと】
祖父から学んだ仕事
徳島県 大塚達也 39歳

昨年、秋祭りで神輿を担いだ。私の住んでいる地域は当番制で、当日に仕事が入ることも多く、最初から最後まで参加したのは5年ぶりのことだった。終わった後は肩や腰に激痛が残ったが、それすら心地よいと感じる充実感があった。

朝7時に神社に到着すると、既に何人かが集まっていた。いつもは作業着姿のおじさんも、今日ばかりはスーツにネクタイの正装だ。どこか緊張した面持ちで、手には神前に供えるお酒が提げられている。

私はこの神々しい雰囲気が好きだ。そんな空気に押し潰されそうになっていると、25年前に亡くなった母方の祖父のことが脳裏に浮かんだ。母の実家は露天商を生業としていて、祖父は綿菓子の店をやっていた。

県内各地の祭りや花火大会は無論、夏から秋にかけては県外に出向くことも多かった。孫の私を連れて行ってくれることもあり、私も色々な祭りをみるのが楽しみだった。当時の祭りは盛況で、神社の参道には多くの露店が軒を連ねていた。揃いの法被を着た若い衆は威勢が良く、境内は子ども達の歓声で溢れていた。

真っ白なザラメを投入し、割り箸でふわふわの綿菓子を巻く作業は芸術だった。子ども達は美味しそうにそれを頬張り、傍らの祖父は優しい笑顔で見守っていた。

しかし、私と祖父に微妙な軋轢が生じたのは、小学校高学年になった頃だった。低学年でサッカーを始めていた私は、上達が早く4年生でレギュラーポジションを掴んだ。更にサッカーでの練習が奏功したのか、陸上の大会に出ても県大会で優勝するまでになった。勉強は全くもって苦手だったが、初めて誇れるものが出来た気がした。

サッカーも陸上も、両親はずっと観戦に来てくれた。もちろん嬉しかったが、大好きな祖父にも観て欲しかった。母にその旨を告げると、少し困った顔で「じゃあ頼んでみたら」と言うだけだった。「じいちゃん、日曜サッカー観に来てよ」その夜、私は懇願した。だが、祖父の答えは「その日はOOの秋祭りがある」だった。来週は?続けて訊ねたが、答えは同じだった。

一言一句は覚えていないが、私は泣きながら祖父を罵った。「僕のサッカーより仕事が大事?」「一個売れてもたかが何百円でしょ!」そんなニュアンスの言葉だったと思う。祖父は悲しげな表情を浮かべ、ごめんな…と小さな声で咳いた。

その一件があって、互いの間に見えない壁が立ちはだかった。言いたいことが言えぬまま3年が過ぎたある日、祖父は心筋梗塞で亡くなった。前夜には翌日の仕込みをしていて、起きてすぐ胸の痛みを訴えて倒れ、救急車を呼ぶもそのまま帰らぬ人となった。ずっと後悔していた。《自らの吐いた言葉は言霊となり、長らく祖父を苦しめていたのではないか…》。

答えに出合えたのは、社会人になって3年目の夏だった。知人の紹介で児童養護施設を訪れた私は、施設長としばし話す機会があった。その内容は、年1回の夏祭りにボランティアで綿菓子店を出し続けてくれたTさんについてだった。瞬時に祖父だと分かったが、込み上げる感情を必死に抑え、頷くことが精一杯だった。

現在、綿菓子の露天は祖父の息子、つまりは叔父が継承している。正直儲かる仕事ではなく、普段の叔父は大型トラックに乗り、日曜祝日だけ各地に出向いている。なぜ続けるのかと言えば、祖父が守った伝統を終わらせたくないとの信念があるからだろう。

仕事である以上、採算や効率を度外視することは出来ない。だか、そればかりに捉われると大切なモノを見失い、お金だけのさもしい人生になってしまう。祖父のくれた宝物を胸に、社会に貢献する大人でありたいと思う。

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