【 佳 作 】
ちょうど3年前の7月、私はバンガロールにいた。バンガロールは、インドの南西部にあるカルナータカ州の州都だ。興奮と驚きと不安が入りまじっていた。7月から10月末まで、ボランティアの教師として勤務する。2歳から12歳くらいまでの百人ほどの子どもたちが共同生活をおくる「スネハ・ケア・ホーム」という施設の付属学校で、算数や基礎英語を教える予定だ。全員が母子感染によりHIVに感染していた。両親がエイズにより死亡したか、HIVに感染しなかった片親や親戚から見放された、いわば最悪の状況下にいる子どもたちを集めた施設だ。
一見、子どもたちは明るく楽しげだった。だが、毎日通ううちに次々と現れる厳しい現実に圧倒された。抗HIV薬による副作用、少しずつ進行する症状、経済的事情から耐性のある効果のない抗HIV薬の服用を続けることもある。年齢が上がるにつれて自分たちの置かれた状況が理解できるようになる。小さい子供たちは無邪気にカメラに写りたがるが、大きい子供たちは避けるようになる。軽々しく励ますことなどできなかった。
日本にいる時から、自己満足のためのボランティアだと分かっていた。だからこそ、何でもしようと思っていた。学校内にはごみが散乱していたので、放課後一人でごみ拾いを始めた。いぶかしげに見ていた子どもたちが徐々に近づいてきて、一緒にごみを拾ってくれるようになった。やがて、教師も参加して全員でごみ拾いをするようになった。うれしかった。
社会から見捨てられたとも言える子どもたちを、支援する人々の考えが知りたくて、様々な人たちに会いに行った。その中で、最も印象的な出会いがある。70代の修道女の方で、HIVの啓発活動をされていた。2ヶ月に一度、2週間以上かけてカルナータカ州を他の修道女の方々と共に車で廻る。村々にいる若い女性にHIVのことを伝えるためだ。この州は、日本の国土面積の約2倍にあたる広大な州だ。簡単に廻るといっても、その苦労は計りしれない。農村地区にいる女性の識字率は低く、経済的にも貧しい。血液検査を受けるように促したところで、病院に行くまでの交通費が払えない。効果は上がっているかを尋ねた。「若い男女のことだよ。難しい。始めから全く関心を持たない人もいるし、こういった話をすること自体タブー視される。5人の女性に話して、一人が興味を持ってくれたらいいほうだね。でも、ゼロじゃない。一人いる。私たちが活動を続ける限り、ゼロじゃない」人差し指を高く上げて、にっこり笑われた。
インドのHIV感染者数は、世界第3位でありアジア圏では最も多い。だが、マスコミがこの事実に触れることはほぼなく、国民の多くは知らない。絶望的とも言える中で、人は希望を見出せるのか。ゼロに近い可能性とは、それもまた可能性があるといえるのか。70歳をこえてなお、他者に関心を持ち動こうとされる原動力は何なのだろう。
帰国後、再就職しまた日常に追われている。インドでの体験が直接仕事に活かされているなどと口が裂けても言えない。可能性が低ければ、それを選ばないという「当然」の選択をしている。だが、インドに行く前と後との、私にとっての「当然」は変わった。失望しても絶望はしない。インドでの思い出が、今の私を支えている。