【 佳 作 】
私は現在、ニュージーランドのテアナウという小さな町で幼稚園教諭として働いている。もう10年目のベテランさんである。でも、私は高校で留学をして英語がペラペラだったとか、父が外交員で英語圏でずっと暮らしてきたとか、英語を日本で一生懸命勉強をして幼児教育の先進国であるニュージーランドでどうしても幼稚園教諭になりたかった!とか、そういう立派な経歴はなく、なんとなく今にたどり着いたという流木のような経歴なのだ。
20年前、私の20代は北海道で看護師をしていた。「天然キャラ」と言われ、なんとなく人間枠ではなく「ドラえもん」とか「キテイちゃん」枠に入っていたように思う。それでたくさん得をしたこともあったのだが同時に息苦しさも感じていた。こんな私でも「私にしか出来ない何かがあるはず」という未来への模索のようなものに駆られるようになり、失恋も重なって「日本で私は一生分かってもらえないのでは・・・」という思いが後押しをして海外に出た。何をしたいという目的はなかった上に英語は全くの中学英語だった。看護師という職業で培った「冷静に状況を把握しようと五感を働かせてしまうこと」「笑顔を絶やさずに他人と接することが出来ること」何より「土壇場になると肝が座ってしまうこと」が私の唯一のしかし最強の武器となり、バブル景気に乗っかって海外で仕事をするようになった。オーストトラリア、タイ、インドネシアと渡っていくうちに少しずつ英語力と海外で生活をする上での社交性が身についてき、それとともにスキューバダイビング、スノーボード、スカイダイビング、乗馬の技術も身についた。
ニュージーランドに入ったのは15年前、私が29歳のときだった。「暑くて忙しく,ぼったくられないように気を張っていなくてはならないアジアから逃れる」ためだけだった。オークランドに着いたときに大きく深呼吸をして「人を信用できるってすばらしい!」とホッとしたのを今でも覚えている。ニュージーランドではスノーボードの免許と日本の看護師の免許を活かしてスキー場の医務室での看護助手の仕事をゲットし、スキー場のオフシーズンとなる夏は日本語とスキューバの免許を活かして観光船の日本語通訳となった。そこでマックスさん(夫)と出会い子供が出来た。テアナウという田舎町に家を買い、新生活をスタートさせた。子供が通う幼稚園では、はじめて見る日本人!そして面白い!折り紙も折れるし、おすしも作れる!と子供たちの中で人気が出始めた。そうこうする中、幼稚園の先生から助手として働かないか?と声がかかり、30代に入り自分の中で「何をしたいのか?」というより、もうテアナウに落ち着いてしまったんだから「ここで何が出来るのか?」を考えていた時だったため、とりあえず目の前にあるチャンスに乗っかってみよう!と幼稚園助手となった。一度ニュージーランドの幼児教育に足を踏み入れてしまうと、その考え方や方法に恋に落ちてしまう。子供たちに寄り添い、自主性を活かすその教育のことがもっと知りたくて、そのために通信制の大学に入学した。「英語力はどの程度あるのか?」と面接で聞かれ、「国民として支障のない程度です」と答えた。あとから学校の先生たちが「あの時は本当に笑ってしまった。私たちが知りたかったのはTOEICとかケンブリッジ試験とかだった。ふいを付かれた」と話してくれたが、とにかく合格し、仕事の傍らお勉強をする生活が始まった。マックスさん(夫)に毎回論文の添削をしてもらい6年かかって何とか卒業した。卒業の時には学校の先生たちみんなが祝福してくれた。
ただいま46歳。0歳から2歳児のクラスのリーダーを任されるようになった。子供たちに身を持って「肌の色や言語、食事、宗教や文化が違ってもみんな同じ。みんな同じ人間。世界中にいろんな人がいる。だから世界は楽しい!心を開いてもっと知りたい!見てみたい。そうでしょう?」と伝えられる!高校時代から私はずっと先生たちや家族、友人たちを心配させ続けてきた。「もう大人なんだから落ち着きなさい」と言われ続けてきた。殆どの人は問題なく若いころからやりたいことを見つけたり、与えられた仕事に満足をして生きていけるのだろう。でも、私は回り道をしないとやりたいことを見つけられなかった。やっと私の「私にしか出来ない何か」をニュージーランドで見つけた。
インドネシアで道に迷って半ベソをかいていたときにおじいさんに言われたことを思い出す。「道に迷うということは新しい道を知るということ。心配しないであごを上げて前を向いて歩いていきなさい。きっと見つかるから」そのときは無責任な言葉だな〜と思ったが、案外そんなものなのかもしれないな〜と思う。