【 佳 作 】
私は地方公務員という仕事柄、異動が多く、浅く広く、様々な業務に携わってきました。
今まで経験した職場はというと、
市民の生活を下支えする 税務部、水道局
観光施設を充実させ、それを宣伝し、観光客を呼び込む 観光部
世界唯一の被爆国としての被爆実相の発信、継承をグローバルに行う 原爆資料館
高齢者のための政策を行う福祉部と、このような職場で仕事をしてきました。
しかし、私が独自に、手本となるようなことや、独創的なことを成しえたことは、残念ながらありません。
独創はできませんでしたが、25年近くこのような勤務をして、学んだことは2つあります。
まず、一つ目は、原爆関係の仕事で学んだことですが、世界的な視点を持つことです。
私は一地方の一公務員で、管理職でもありません。
しかしながら、原爆関係の仕事をしていると、原爆対策の仕事は、一地方都市に留まる仕事ではなく、被爆都市として世界に被爆の実相を伝えるという、本当に大きな視点で考えなくてはいけません。
世界の中の軍縮の動き、核兵器の問題などを真剣に考えました。
そのきっかけとなったのは、被爆者の故・Yさんとの出会いでした。
語り部をしているYさんは、顔に原爆によるやけどを持っています。傷とともに生き、つらかった人生だったと思うのですが、そういうことを見せずに被爆体験を語り続けました。
Yさんとの印象的な出来事は、アメリカ南部の大学に招かれ、私と2人でアメリカに講話に出向き、被爆体験の話をすると、私の予想以上にアメリカの大学生の心を動かしました。何名かの学生はYさんに原爆投下を謝罪しました。
その答えとして、Yさんはアメリカを恨んでいない、戦争を恨むといいました。
拍手が鳴りやみませんでした。
真実や真心は国境を軽々と超えることを実感しました。
もう一つ学んだことは、福祉の仕事で学んだことですが、伝教大師・最澄の言葉ではありますが、一隅を照らすということです。
福祉の仕事で、面会した、障害者のAさんがまさに一隅を照らす人でした。
足が不自由なAさんは一人暮らしですが、自分では立ち上がれず、家の中を這って家事をしていました。
障害者の施設で働きながら、ボランティアで老人施設の汚物をふき取る雑巾を縫うことを懸命にやっていました。
障がい者であるAさんは、Aさんの父がAさんのために手作りで、Aさんがこげるような自転車を作ってくれたこと、そのことへの感謝を繰り返し語り、その経験が今の自分の原動力であることを語ってくれました。
両名とも、第3者から見ると、つらい境遇ですが、本人たちはそのつらさを見せずに、明るく人生を歩んでいたことにも感動しました。
仕事は、多面的であり、すぐ語りつくせるものではないと思いますが、仕事の根幹には、生きるとは何かという根源的な問いが含まれていて、それは、ずっと自分に向けて問い続けていくことだと考えています。
なんだか説教くさくなりましたが、お許しください。