【 佳 作 】
私には仕事が二つあります。一つは、幼稚園の園長・もう一つは僧侶。たまにどちらが本業?ってきかれることがありますが、私にとっては、どちらも本業です(笑)。
私の子どもの時になりたかった職業は、看護婦(看護師)さん。人の世話をするのが、好きだったこともあります。しかし、これはいろいろな視点からあきらめることになります。根っからのおっちょこちょいの私は、薬を間違えるかもしれない。また、ブッキー(不器用)でもある私は、注射でたくさんの人を悲しませるかもしれない。いやいや一番の欠点は夕方から夜には頭が働かなくなり、夜勤が無理っていうことでした。
次に考えたのが、声楽家。小学生から合唱団に入り、高校生まで続けていたので、大学でも歌を続けていきたいと思ったのです。でも、これは母親の反対にあい、仕事につける確率の低さから、あっさり却下。
家は、父が始めたお寺と幼稚園があったので、子どもは扱うのが難しそうだし、僧侶も人づきあいが難しそう。でもとりあえず大学に行こうという安易な考えで、仏教系の総合大学で仏教を勉強することにしました。
宗門の僧侶になる学科もありましたが、偏った勉強をしたくないと、あえて外したのです。
親元を離れて、楽しい学生生活も3年生になりました。ある日、同級生の男子が、「君のうちに養子に行ってもいいよ♥車を買ってくれたらね」って・・「はぁ?」
お寺を持っていない一般から僧侶になる男子は養子先を見つけようとしていたのでしょう。そのころ純粋だった私は、なに?そんな不純な感じで僧侶になるの?亡くなった人を送る仕事なのに、こんな人に送ってもらうくらいなら、自分がする。と思うとまっしぐらの私は、僧侶になる単位を取るために、大学4年生で夜間部に入り、卒論と並行して僧侶の修行に行くための単位を取ったのでした。
大学を出てすぐに髪をおろし修行に行きました。師匠である父は、娘がまさか髪をおろしてしまい、いきなり男性の世界の仕事に就くことには反対だったようです。
修行から帰ったら、僧侶のステップアップでいろんな研修をしようとしていた私が家に戻ると、幼稚園を仕切っていた主任の突然の退職。残されたクラスの担任にいきなりなって、わからないまま幼稚園の先生に・・
子どもってわからない。苦手だ。と感じていたので、始めて2年間は辞めたいと思いながら仕事をしていました。
しかし、昔の人はさすがです。「石の上にも三年」子どもたちとの距離も縮まり、楽しさも見えてきました。
そうして、父の元僧侶の仕事を土日にして、平日は幼稚園と休みなく働いていましたが、すぐに父の様子がおかしくなりました。
「若年性アルツハイマー」
僧侶として新米の私が、一人で法務をすることになりました。わからないことがあると、大学の友人のお寺に聞いたりしながら法務をこなし、日々子どもたちと遊び、ようやく今年30年になります。
30年の間に、幼稚園の方では、幼稚園教諭や個性豊かな子どもたちの特別支援の資格も取り、園長になりました。僧侶では、もちろん法務のほかに、東日本震災の支援活動や宗門では女性で36年ぶりに2人目の宗会議員の機会をいただきました。私生活では、祖母・両親が逝き、結婚・離婚もしました。残念ながら子どもには恵まれませんでしたが、現在は、イングリッシュコッカーの娘二匹と日々の仕事を悩み・苦しみ・楽しみながら、行っています。
よく、「毎日仕事仕事で忙しいですが、何がたのしいですか?」って聞かれます。
私は趣味も仕事。特技は葬儀(不謹慎?)って言ってます。仕事は大変です。でも、私を待っていてくれる子どもたち・檀信徒の方々が一人でもいて下さるうちは、がんばれると思っています。
妹たちが良く言います。「お姉ちゃんは、回遊魚だから、止まると死んじゃうんだよね?」って。