【 佳 作 】
1959年わたしは中卒で鉄工所に溶接見習工として入社した。宮城県から来た体の大きな男と一緒だった。多少動作が遅いことから先輩たちは鈍牛と呼んだ。同期は8人いた。そのうち6人の故郷は青森、秋田、福島で、農家の若者たちだった。製缶工、圧延工、プレス工などに配属された。
井沢八郎という歌手が1964年に『あぁ上野駅』(関口義明作詞)という歌を大ヒットさせた。関東以北の中卒者を都会に運んだ、就職列車の終点駅である。
金の卵などともてはやされていたが実状は、徒弟制度まっ盛り、親方や先輩の鉄拳が日常茶飯事だった。我慢するしかなかった。寮生の彼らは、♪〜お店の仕事は辛いけど 胸にゃでっかい夢がある〜♪ の歌詞をサンプルにしたかのように辛抱強く耐えた。「くじけちゃならない人生」をまっとうするしか方策がなかったのだ。
自分好みの仕事だとか、気持ちよく働ける職場の選定など夢のまた夢だった。
性に合わない仕事などと言っていられない。引きこもりになったり落ちこぼれになったりする暇などなかった。自分の居場所を確保せねばならなかった。しかし悲壮感は露ほどもない。職人を目指して充実人生を送っていた。
落伍者は皆無であった。社会とは苦しいこと、つらいことの連続だということを幼少時から学んで、身体がきっちり覚えていたとしか考えられない。地元組のわたしは1年で退職した。情けない話だ。
こんな時代があったことを、今の時代に生きている若者に知ってほしい。理由は、身体で表現をする若者が減少していると思えてならないからだ。不良少年もしかり。普通の若者が増殖し続けていて、サイレント映画を見ているような気がしてならない。
わたしは40代後半、建設業で自営独立したが現在でも慢性的に人手不足だ。建設業は裸一貫身体で稼ぐ、表現する職業の代表だ。物質的な豊かさがほぼ全国に配達されたからであろう、就職列車は昭和50年で最後になったが、学歴など関係なく自分の可能性を発見できるのは、建設業が手っ取り早い。世界にも類を見ない超高齢化だ。介護業界もしかりだ。何となくきな臭い世相の今、明日を見つけてほしい。そのためにも体力は必須だ。
退職後は運転手となった。時代の要請があって稼げるからだった。職業に貴賤はないと中学で教えられた。タクシー運転手になったとき、痛切なウソだと思い知った。バブル期の前兆、世の中はるつぼのように沸騰していた。酔ったネクタイ族に雲助稼業呼ばわりされたり、ストレスの解消対象として無茶苦茶な言動もしばしばであった。
野生児そのままに育ち社会に出たわたし、性格が偏頗なのは判っていた。このようなおとしめに耐えられる神経は持ち合わせていなかった。妥協などできなかった。殴り合いになったことも三度。退社した。
観光バス会社に入社したが、若すぎるわたしには馴染めなかった。3か月で見切りをつけた。
ヒントをくれたのは職長になっていた宮城の同期だった。鉄骨加工の注文が多く、建設ラッシュが発芽していると教えてくれた。
トラック・クレーンの免許を取得した。指示された品物をレバー操作で移動すればいい。人間関係においてわずらわしさがない。天職だと思った。初めは高所作業の鳶職人にどやされた。シノという道具を投げつけられもした。下手なのだから納得して叱られた。1年もすると一丁前になった。現場から指名もかかるようになった。誇りと気位を持つことができた。この頃からゆがんだ性格も徐々に矯正された。人は変われるものだということを知った
わたしの転職は性格が災いしたことだが、転職するごとに社会の構造、仕組み、人間の愚劣さ、自分が持ち合わせていた常識がいかに卑小であったかを学んだ。
オペレーターになって8年後、同期から結婚招待状が届いた。スピーチを依頼された。快諾した。鈍牛があだ名だったこと。花嫁は妊娠5か月。鈍でできる芸当ではない。鋭い牛に変貌した、と述べた。