【 佳 作 】

【テーマ:私が今の仕事を選んだ理由】
人生、辛抱こそ道はひらける
埼玉県 金丸孝助 77歳

「いま辞めたら、君の将来はないよ」Kさんの言葉は、私に対し重みのある説得であった。真剣に励ます口調は、後の私の生き方を一転させる教訓となって、まさに辛抱する大切さを教わり、いまの暮らしを支えているのだと思っている。

私が正直に履歴書を書くと、用紙が数枚必要となる。高校中退後社会人となってから何十回と転職し、自ら招いたこととは言え、今心豊かに暮らすことができているのは紛れもなく、Kさんの叱咤激励があったからだ。私は今年、喜寿の年を迎えた。少年期から壮年期に至る波乱の人生を回顧してみる。

母は終戦の後、私が6歳の頃に若くして病死した。東京から戦火を逃れ、両親の古里に疎開し間もなくだった。混乱していた社会状況、貧しい暮らしが満足な医療も受けられなかったのだろう。私にとって、母の面影や触れ合った温もりの記憶は残っていない。その後、父と二人だけの暮らしは寂しい思い出しかなく、家族の団欒を味わうこともなく、学友の家庭を見ては羨ましく思ったものだ。

そんな環境が性格を消極的にさせ、小・中・学校時代は不登校になり、父を悩ませたものだ。父との暮らしに、のら猫が一匹、父は可愛がっていた。優しい顔が懐かしく蘇る。

当時、中学から高校へ進学する卒業生は、半数以下の時代であったのに、何故私が高校に進学できたのか、そのことを理解できたのは、父が亡くなった後のことだった。長男が戦死し、次兄や姉が奉公に出ていたことも知らず。兄たちは満足な教育を受けられず。兄は、私だけでも高校教育をさせようと、学費は自分が負担すると、父を説得したことを知る。その兄の気持ちも裏切り、学校を1年足らずで中退し、東京へ飛び出してしまう。すでに東京にいた兄は、高校転校の手続きに奔走し、その期待にも応えず、また中退する始末に、最後は兄からも見放されてしまった。結局、私は自分で学校を探し、3つの高校を渡り歩き卒業するまでに、5年を要したことになる。しかし、履歴書には高校卒業と記載できるのが、自慢であった。

社会人になってからも、就職しては辞める転職の繰り返しで、あらゆる職種に関わり、全て短い務めで辞めている。その間にも私のことを気にかけてくれた。Tさんの教えは、「遅刻するな、挨拶は元気よく、約束は守ること」なのであった。そのTさんとも不義理のまま別れることになった。転職を重ねるなかでも、私を認めていてくれた人がいた。その人の紹介が、Kさんとの出会いだった。

Kさんと面接し、私はその職場に世話になることになった。すでに、私は36歳の年齢になっていた。その職場も1カ月足らずで辞めたいと、Kさんに言うと「君は、いま辞めたらもう働く所はないよ」そして「もう辛抱することを自覚しないと」私と向き合い親身になって論す言葉には、何か迫力が感じられた。初めて辞めることを踏み止まった。

その後、3年〜5年と同一職場で働くうちに、仕事や人間関係にも慣れ、性格も積極的になってきた。きっと、Kさんは私の仕事ぶりを見ていてくれたのだろう。それは、Tさんから得た教えを、少しづつ実践していたからだと思っている。やがて、私は管理職に昇格し、最後は役員の一翼を担うまでになり、気づけば私は50歳半ばの年になっていた。

私は37歳になって、自分を見詰め直すことができたのだ。人は、様々な生き方、働き方の選択肢があり、誰でも失敗することもある。それをいつ気づくかであり、私にとってはTさんとの出会いから得た教えと守り、Kさんからの教訓だった。人は誰にでも長所はある。それを生かすのは、良き人との出会いであり、それを受け入れる感性だと思う。

その教訓は、私にとって定年退職の後も地域交流やボランティア活動に生かされ、人生辛抱こそ道はひらけることを、Kさんのお蔭で学んだと思っている。

戻る