勤めていた障害者施設が閉鎖になることが決まり、入所していた方々の次の職場と住む場所を探したのが10年前になる。20代から60代まで20数人が環境の変化を余儀なくされた。本人の希望を第一に、その家族と施設職員が一丸となって、現状よりも良いところを目指した。マイナスをプラスに変えようと言う意気込みがあった。私がその施設で働き始めて2年目のことだった。ところが現実は本当に難しく、10年たった今も心が悲鳴をあげるほど悲惨なものだった。障害を持って働くことの難しさを痛切に感じさせられ、絶望した時でもあった。
結局一般就職を果たした人は一人もなく、施設を移動しただけのかたちになってしまった。20代、30代の若い人は、企業に勤めることを目標に掲げたが、夢が叶うことはなかった。働いて得た収入で、自立した生活をしたい、決して高望みではない普通の願いが叶わなかった。
障害がその夢を阻んだのだろうか。私は「ノー」と言いたい。障害があってもなくても同じように生活ができる、それが共生社会ではないだろうか。学校でも職場でもそして家庭においてさえ、千差万別の個性があり、それがぶつかり合ったり、軋轢が生じたりする。その中で互いに支え合いながら生活している。人は決して一人ではない。社会に、家庭に居場所を確保しながら生きている。「障害」は特別ではない。障害を自然に受け止め理解する世の中の実現を痛切に願っている。
現在、50人以上の人が働く企業は障害者を雇用する義務がある。50人に一人の割合で障害者を雇用しなければならない。それが達成できなければ罰則規定もある。また「障害者の雇用の促進等に関する法律」が改正され、事業主に対して障害者への差別禁止及び合理的配慮の提供を義務づける規定が新設され、来年4月から施行される。それが障害を持つ人、一人ひとりに有益になる改正になってほしいと願う。
10年前の施設閉鎖当時を振り返ると、障害者の求人を出している数少ない企業が頼りで、本人の意向とは掛け離れたところで右往左往していたのかもしれない。しかも施設閉鎖の時期が決まっており、限られた期間内に、焦りばかりが先行していたように思う。
念願の一人暮らしを始めた人たちも、働く場所が見つからないまま、年月を重ねてしまった。親元に帰ったものの、地元では働く場所がないからと、施設入所に転向した人もいた。企業と障害者をつなぐ地道な努力を怠っていたのではないかと、後悔の念が残る。
現在、障害者就業・生活支援センターが地域ごとに設置され、障害者の就労と生活の両面からサポートがなされていると聞く。当時このセンターがあったなら、もう少し違った対応ができたのではないかと思う。単独で出来ないことも、多くの組織と連携すれば、きっと道は開ける。
障害者を雇用したい企業もあると思う。どうしてよいかわからない不安があるのかもしれない。そうした不安を取り除いて、障害者と企業の橋渡しをする人たちが多くいればよいと思う。さらに働く障害者の周りに、長く勤められるようにサポートする人たちがいれば、障害があってもなくても普通に働ける社会が実現するのではないかと考える。障害を理解する人たちが増えることを切に願う。
十年前、施設から出ることを余儀なくされたた人たちは、本意不本意はあるが、それぞれ新たな生活の場に落ち着いた。たまにではあるが、会いに行くと、その順応性に感服させられる。「置かれた場所で咲きなさい」という渡辺和子氏の本があるが、まさにそうだと思う。会うたびにこちらがエネルギーをいただくほど、置かれた場所で逞しく咲いている。10年の歳月はさらに多くの生活の変化を余儀なくされている。にもかかわらず、皆さん、逞しく頼もしく日々を積み重ねている。