既に還暦を過ぎ、再雇用の任に当たっている昨今、何時の世も若者達が迷い込む人生の障壁に、私の生き方が参考に成ればと書き始めた。
私は20代から造船所勤務を続ける中、安定はしていたけれども充実感や生甲斐等を見出せなく、ただ黙々と己に与えられた仕事を7年近くこなしていた。
造船所では溶接が花形職種と言われていて、それは平均的船舶の溶接長さが東京―大阪間の距離に匹敵する工事量による。溶接に関する職業自体にそう不満は無かったけれども、眩しいアーク光は決して私の将来を照らさなく、重苦しい気持ちの私がいた。それでも、大会社に就職出来た事を喜ぶ父母に心配をかけたくない思いが常に脳裏を過り、何度となく退職を思い止まった。そこには「転職・離職=辛抱が足りない奴」的な日本社会の評価があり、他に好む職業が無ければこの会社で生きねばならないと自分に言い聞かせて、更に辛抱をした。
そんな或る時、船を造るばかりで乗船や航海経験の無い部署の私に、海外出張の話が降って湧いた。それも外国船にて航海中に改造工事をする、極めて異質な社会体験は、私に大きなカルチャーショックを与えたのだった。加えて、地上勤務に嫌気が渦巻いていた頃だった私に、サラリーマンの身分のまま己の環境を変えるのは、海外で働く事しかないと感じ始めていた。
しかしながら、海外事業部に所属しない者に再度の海外出張は無く、さりとて気分の乗らない造船現場を顧みて、私の気持ちは複雑に揺れ動いていた。そんな矢先に今度はアラブ首長国連邦(UAE)へ出張する、有り得ない事が起きた。彼の国では契約社員として働く2人の青年海外協力隊OBがインド・パキスタン人を指揮する仕事ぶりに驚嘆し、一度しかない人生なら私も彼らの様な仕事がしてみたい!そんな気持ちが私を支配して行った。帰国後、人事部勤労課に協力隊参加の相談に行き、2年3ヶ月間の有給休職に入った。
私の赴任先はバングラデシュのチッタゴン職業訓練センターで、溶接指導が任務だった。個人的に不満だらけの造船会社を私は「合法的」に抜け出し、一切のしがらみを忘れた2年間から故国を眺めれば、以前の己とは全く異なった視点から母国を観察できたのは新しい発見であった。それは海外に派遣された隊員達に共通する現象であり、日の丸を背負って我国の歴史・文化・宗教等もがすべてリンクした中で感じ得る環境に置かれたからだろう。しかしながら、敗戦後も素早く立ち直った経済的な繁栄から、アジアを旅行する者には「アジアの兄貴的」な振る舞いをする日本人もいる。それは、今で言う藤原正彦氏の国家の品格の通り、外国から自国を眺めた時に祖国の文化を大事にしなければ、経済力だけが秀でても尊敬はされないと、肌で感じたのだった。
私の海外経験は皆さんに威張る程の内容ではないが、サラリーマンを我慢の内に過ごした閉塞感を自ら切り拓き、そこには会社も職種も変える事なく第三の道を探した延長線上の後、復職した。そんな私の行動を評価してくれたのか、現ポリテクセンターに採用されて今日にある。
仮に私が造船所を辞めていたならば「信用できない奴」として、現在の職場に採用される事は無かったであろう。此処で私が若い世代に言いたいことは、日本の社会的文化は「辛抱」する人材を欲しているとの結論であり、我慢の内に新たなる道を見出せば、誰かがその姿勢を評価し、次なるステップに繋がって行く道筋が在るから、その辺りを昭和の老婆心から一言申し上げたかったのだ。