【 佳 作 】
「かつて女性の社会活動家たちは、女性の権利のために立ち上がってほしいと男性に求めていました。でもいまは違います。わたしたち女性がみずから立ち上がるときがきたのです。女性が権利を得られるように声をあげてくれている男性に、それをやめてくれといっているのではありません。女性が自立して、自力で闘うべきだといっているのです」
これは当時17歳の少女、マララ・ユスフザイさんが国連本部でのスピーチで話したことである。私は同世代の女性として彼女のスピーチを聞いた。世界にはこんなに大変な思いをしている女性もいるかと、対岸の火事のように考えていたが、我が国も先進国の中では、最も女性の地位が低いといわれている。
生活水準も高く、治安もいい国であるにもかかわらず、女性や子供など社会的弱者に向けられる目は冷たいものだ。女性が職場に進出するようになってからも、セクハラやマタハラなど様々な問題が起きている。女性を守る法律はしっかりと整備されているにもかかわらず、なぜ女性は守られないのか。それは認識が遅れているからである。今でも「女性は男性をサポートするもの」「家の仕事をするもの」という認識が根強い。よって男女平等という法律は単なる建て前で終わってしまう。女性の社会的地位の高い北欧などでは、法の整備とともに徹底した意識改革を行なった。「男性も家事を手伝う」という認識ではなく、「男性も女性も協力し、家事や子育てをするべき」という認識に変えていった。要するに意識さえ変われば、女性への差別は自然となくなるのだ。まずは、地道に認識を変えていかなくてはならない。
最近は共働きの家庭も増えてきた。そういった社会環境の中では、なおさら女性の社会的地位が高まってくる。働く女性が多くなってくるということは、「家事」が女性の仕事ではなくなってくるということだ。女性は外でも働き、家事、育児もすべてこなす。というのは肉体的にも精神的にも負担が多すぎる。女性が外で働くようになったからこそ、男性も家事、育児をするという認識を高めなくてはならない。発展国はもはや結婚した女性を「家内」「奥さん」という認識では見ない。家の外に出て、奥ではなく、男性の前に出る時代なのだ。
昔から仕事の上で男性よりすぐれている女性はたくさんいた。しかし「女性」というだけで、社会の表舞台には出られなかった。これは、人間がおかしてきた大きな損失である。仕事の出来る女性は昔から存在し、男性は家事が出来ないのではなく、しないだけであった。これは単なる面目にすぎず、時代が進み、より有能な人材を求める社会においては不用な面目である。生まれ持った性質に関係なく、自分らしく生きることが望まれる時代に、自分の生きる喜びを見い出すのだから。
そして、マララ・ユスフザイさんの言葉に立ち返ってみる。この言葉から私なりに読み取ったメッセージがある。まず、これまでの日本人女性は、女性の権利を訴え、社会に呼びかけてきた。そして理不尽な被害をひたすら叫び続けてきた。だが、これからは、訴えるだけではなく、「自力で闘う」のだと。また自らも、女性としての立場に甘んじることなく、強く生きていかなくてはならないのだということである。
すべての人にとってよりよい社会にするためには、一部の人が変わるだけではいけない。女性も男性も、社会的な弱者や強者も共に変わらなくてはならない。それは難しいことだが、そうしないかぎり、一部の人が声なき声を上げ続けるだけになってしまう。
私はこれから次世代を担う女性として、“女性らしく”ではなく“人間らしく”生きていく。