【 佳 作 】

【テーマ:私が実現したい仕事の夢】
生きがいを仕事に
広島県 西亜澄 31歳

13歳の時に決めた、看護師になるという夢。人の役に立ちたい、家族を支えたい。その思いだけで必死に勉強し、国家試験に合格。看護師としての人生がスタートした。

社会人として早く認めてもらいたくて、努力の日々が続いた。何時に帰れるか分からない日勤。二交代制の夜勤はヘトヘト。看護研究や後輩の指導に加え、休日は研修や勉強会に参加。自宅でも予習・復習をし、眠らなくても平気だからと、体を酷使していた。

それでも辛いとは思わなかった。私は看護師としてこの世に生きている。人と接する仕事、誰かの役に立てる仕事、そして何より、女手一つで兄2人と私を育ててくれた母にとって、私は自慢の娘だろうと自負していた。

そんなある日、突然メニエール病を発症した。眩暈と吐き気がひどく、立つ事も出来ない。耳も聞こえづらい。原因はストレスだと言われた。社会人2年目の、これからだという時に。

何人もの医師が口を揃え、この病気は一生治らないと言った。私は絶望の淵に立たされたが、仕事を休む訳にはいかない。半日勤務に替えてもらい、狂ったように仕事を続けた結果、1年後、私は別人のように痩せ細り、看護師を辞めざるを得ない体になっていた。

何のために生きているのだ。看護師が出来ない。働きたいのに働けない。母のためにもならない。誰の役にも立てない。

私は生きている意味がないと、毎日泣き続けた。どうやって死のうか考えた。でも、本当は生きていたくて、いつかまた看護師に戻りたくて仕方なかった。

そんな中、離れて住む父から連絡が来た。父も耳の病気を患っているため、眩暈や難聴の辛さを理解してくれた。「一度でいいから診てもらえ」と、父の担当医師を勧められ、半信半疑で病院へ向かった。

「絶対に変わるから。頑張ってやってみよう。今日からすぐ点滴だ」

私は驚いて、声が出なかった。代わりに、涙が一粒流れた。

「絶対に変わる」という医師の言葉で、私は何があっても生きようと決めた。久し振りに、私は笑っていた。

2年間、治療に専念し、私は遂に社会復帰した。しかも、治療で通院していた病院の看護師として。私と同じ病気の患者さんが、毎日沢山やって来る。誰よりも、患者さんの気持ちが分かる。痛みが分かる。ここなら、人の役に立てる。病気を患っていようと、働ける。生きていける。

もちろん、持病を抱えながら生きる事、働く事は容易ではない。治療費のために無理矢理働いて、ますます持病が悪化するという事も経験した。どんなに働きたくても、どんなに資格を持っていようとも、体が動かなければ何も出来ない。そして、職場や家族など、周囲の理解がなければ、自分の居場所はないのだ。

私の場合、私を救ってくれた医師や看護師、休職中に始めた手話サークルの人達との出会いがあったから、居場所を見つけられた。そこなら自分を隠す必要はなく、病気があってもなくても関係なく、コミュニケーションが取れた。そのままの自分で居られた。自分をさらけ出す事で気持ちが楽になり、結果、徐々に持病をコントロール出来るようになっていった。

かつては生きる事すら諦めた私だが、今は夢がある。それはパートナーとの出会いがきっかけだ。

私一人では、今日まで生きられなかっただろう。沢山の出会いがあり、一番身近なパートナーが私を認めてくれたから、このままの自分でいいのだと、自分を受け入れられるようになった。

来年の今頃、私はもう「看護師」ではない。しかし、どんな道であれ、どんな私であれ、誰かの役に立てるのなら生きていたいし、何より人の笑顔が私の生きる糧になる。

病気や障がいを持つ人も持たない人も関係なくお互いを認め、共生出来る社会を創りたい。そのために少しでも役に立てる会社を、私達夫婦で創りたい。

これが、今の私の夢だ。

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