私はまだ大学生であり、自活的な労働には携わっていない。ひと足先に社会へ出た私の同期らは、身を粉にするように働いているようだ。中には、思い描いていた将来と違うといい、1年経たないうちに仕事を辞職し、あらたな道を模索する者も少なくない。そういった若者たちに対して先人たちは、決まったように「最近の若いもんは根性が足らん」といった台詞を吐く。
私は現在、東南アジアのとある貧困国で生活している。私はその国の所謂エリート校と呼ばれるところに通っており、医者や弁護士、政治家のご子息たちに囲まれて研鑽を積んでいる。それにもかかわらず、貧困国の国立大学の構内はお世辞にもきれいとは言えず、なんだか混沌としている。 授業の休憩時間になると、子供たちが校舎の前で待ち伏せし、我々学生に物乞いをしたり、ジャスミンの花輪を売ったりする。他にも、学生が道端に捨てるゴミを拾い集めている子どもたちも見受けられる。
私はそういった子供たちの情けを買うわけではないが、労をねぎらうつもりで彼らからジャスミンの花輪を買うことがあった。これは、カトリック教徒が聖母マリア像へのお供えとして使われるいるもので、非カトリック信者の私にとって特に使い道があるわけではなかった。ある日、いつものように、子どもから花輪を買った後、他の少年からその花輪をくれとせがまれた。私は、この花輪も、私のむさくるしい部屋で枯れゆくよりも、この少年の要求を満たした方が幸せだろうと思い、それを彼に差し出すと、私の手からひったくるように掴み取り、そのまま人ごみへ駆けていった。
私は、その軽率な行動を反省することになる。先ほど私にお花を売ってくれた子どもが、その一部始終を見ていたのである。彼は、憤然とした面持で声を震わせながら、「あげちゃダメじゃないか、不公平だ」と私を叱りつけた。確かに私は、悪いことをした。彼は年下の弟たちを養うために小学校を辞めた。病気で働けない両親の代わりに、夜中の花輪が売り切れるころまで働きつめている。懸命に働き、ようやく売れた一輪のそれを、私はまるでそれが自身にとって価値がないかのように、他の子どもにただであげてしまったのだ。「働かざるもの食うべからず」といった概念は、異国の小さい子どもにまで浸透しているらしい。
以降私は、そういった労働に携わる子どもたちと深くかかわりを持つようになった。そうして分かったことは、誰一人として今携わっている労働を望んでいないということだ。ほぼすべての子どもたちは、それぞれ将来就きたい仕事に希望を持ち、その夢を叶えるために学校で就学することを切望しているのだ。しかし、貧困は彼らから教育を奪い、望まない仕事を強要する。
彼らからすると、高等教育を受けたにもかかわらず定職に就かずにフラフラとする日本の若者の姿を見ると、腑に落ちない部分があるかもしれない。しかし、日本の若者も同様に、様々な困難を抱えているのではないか。どこの高校、大学へ行くかで後の人生が決まると言われ、学生生活の大半を入学試験だけに必要な勉強に費やし、大学へ入ってからは学業を二の次にして、より有名で待遇の良い企業へ入るために貴重な学生生活を捧げる。そうして、他人や社会が望ましいと思うレールの上を、気づくことなく歩かされているうちに、自分が本当は何をしたいのかを考える時間すら奪われているのだろうか。
働くとはなにか。フィリピンの子どもたち、そして日本の若者の現状を見ると、働くとは単純に、生き残るための手段だと結論付けることはできない。人は誰しも、働くことに意義や、やりがいを求める。私は今、フィリピンの児童労働に携わる子どもたちに教育の機会を与えようと、様々なプロジェクトに取り組んでいる。お金にはならないけれど、これもまた、私にとってとても大切な仕事なのである。