震災から約10ヶ月経ち、当時大学生だった僕は、東日本大震災の復興ボランティアで宮城県石巻市に行ってきた。現地は、一軒家はもちろん、学校等大きなたてものまでボロボロになっており、東京からバスに乗り数時間で行ける場所とは思えないくらい滅びた姿をしていた。向かうバスの中、現地に近づいていくにつれて、どんどん緊張感は高まった。なぜなら辺りには何もなく、ただただ瓦礫が積まれた景色だけが広がっていたからである。
当時、ニュースではよく目にしていたものの、震災でバラバラになった建物を実際に目の当たりにすると、その被害は私の想像をはるかに超えており、愕然としたのは今でも覚えている。そんな石巻市で私が行ったボランティアとは、ホヤの養殖の手伝いである。ホヤは海のパイナップルと呼ばれ、出荷まで3年がかかる。宮城県はこれを生産、販売することで収益を得ていたのだが、震災の影響により、ホヤの養殖棚も流されてしまった。私たちが行ったボランティアは穴が開いたカキの殻を一番下が外側になるように、表裏表裏…と交互にひもに通す作業だ。これを海に吊るすことで、付着したホヤを養殖していくという流れである。たくさんの都道府県の方々がいたが、思いは一つ、少しでも復興支援をしたい!というものだ。
午前の作業を終え、お昼の時間になり、皆打ち解けた雰囲気の中、漁師の方が話を始めた。津波はどこまで来たか、避難所での状況、以前の浜の様子、地盤沈下、塩害、そして将来のこと。鮫浦でホヤの養殖を営んでいた漁師25軒のうち、半分以上が再開を諦めているという。そして、「津波の後はなんもやる気なかった。でも助けてくれる人がいたから、俺は前を向けるようになったっちゃ。若い漁師たちも皆諦めてやる気なくしてっけど、俺が養殖また始めたら浜さ戻って来っぺ。俺には結局これしかできないっちゃ」と、続けた。この言葉は私の胸に突き刺さり、心から、役に立ちたい!少しでも!と感じた。正直10ヶ月も経って、もうボランティアは必要ないかもしれないと思っていたのだが、実際来てみて、まだまだ人手が必要だということを実感した。午後の作業も終えると漁師、地元の方々からたくさんのありがとうの言葉が送られた。東京行きのバスで帰る際、少しばかりでも復興のお手伝いが出来て良かったと思うと同時に、ホヤの養殖だけでなく、震災で影響を受けた全ての産業、街、人々が皆以前のように元気を取り戻して欲しいと祈った。
このような経験などから、将来着く仕事は地域に密着した会社がいいなと考えるようになった。今私は社会人2年目で、金融機関の営業職に勤めている。地域、地元を大切にしている会社に勤めることができている。例えば地域で主催するお祭りに参加したり、中小零細企業者同士が参加できるビジネスマッチングも行っている。これから少しずつ金融知識、業界知識を身に付けて、地域の企業、人々に元気を与えありがとうの言葉をコレクションできる人間に成長することが私の働く上での目標である。