【 努力賞 】
【テーマ:仕事・職場・転職から学んだこと】
窓枠希望
大分県 祐輔 30歳

中学生くらいのころ、僕はただ、漠然とこんなことを考えていたのだ。

首都高速に乗ると、大きなカーブに沿うようにビルが並んでいるだろう?大きなビルには、幾つもの窓があり、車内からそれらがとても小さく見えるんだ。実際には、近くで見れば1枚1枚がとんでもなく大きいんだろう。あの1枚の窓の中には、いったいどれだけの人間が収まっているのかな?一枚の窓の中にどれだけの人間がまいにち電話したり、コピーしたり、コーヒーを飲んだり怒られたりしているんだろう。その人数を真剣に数えようとしたなら、僕は目眩がしちゃうんだろうな。だけど…。『たぶん僕も将来は、あの窓枠の一つに収まっていくようになるんだ』

大学生になって、就職活動を始めた時、『窓枠』に収まることがどれだけ難しいことなのかを痛感した。あそこに並んでいるのは、いわゆる「大企業」だからだ。就活生の有名企業志向が懸念される世の中だけど、僕は別に、企業ブランドを身にまといたいとか、経済的に他人より優位に立ちたいとか、そんな風に考えてきたわけじゃない。単純に『窓枠』に収まることを希望していたのだ。内容ややりがいではなく、ただそこそこの職業につくことだけを求める『窓枠希望』、それが僕だ。そこに熱意がないわけではなかった。与えられた仕事ならば文句を言わず一生懸命やろうと思ってもいた。今になれば「そんなんで内定がもらえるわけもないよなあ」と理解できるが、当時はなぜこんなに惨敗するのかわからなかった。きっと僕のような若者はたくさんいるだろうし、それに、あの窓が並ぶビル群の中に、「自分は『窓枠希望』なんかじゃなかった」と断言できる人がどれだけいるのだろうか。

そんな僕は、今、故郷とは遠く離れた大分県で、教師として働いている。

『窓枠』に入ることを断念した僕は、保険として取得しておいた教員免許を活かして、鉄道の高架下にある専門学校に勤めることになった。そこで目にしたものはふわふわした想像上の『窓枠』での仕事とは大きく違い、地を這いつくばるように必死に努力する生徒と教師の姿だった。人の命を救うため、本当に誰かの役に立つために仕事をしたいと熱望し、その想いに応えるためにも毎日生徒に寄り添う先生達。僕は毎日そこで悩み、壁に当たりながら、それでも不思議と辞めたいとも「こんなはずじゃなかった」とも思わなかった。教師なんて職人みたいなものなんだから、これくらいの修行はあたりまえ、くらいに構えていた。しかし、毎日本気で、死に物狂いで夢に向かって努力する教え子たちを見て、「自分はどうなんだ」という思いを抱いていた。教師は職人だ。技術は身につくから、口ではなんだって言える。でも、『窓枠希望』であった僕が、彼らを前に熱く夢を語る資格なんてあるのだろうか。

就職してから結婚した妻が、子供が生まれたことをきっかけに「実家のある大分に帰りたい」と言った。将来のことなどを考えれば僕もそうした方がいいと思っていた。でも、移住するのに僕は一つだけ条件を出した。

「教師の仕事が見つかるまでは絶対に大分に行かない」

友達ならいつだって会えると思っていたし、都会の便利さにだって未練はなかった。ただひとつ、僕がこだわったのは仕事だった。これだけ教師にこだわっていることに自分でも驚いた。けれど、この仕事に出会ってから僕は不特定多数の『窓枠希望』から教師という個人になれたという実感があった。きっと、何の仕事であってもこうなっていたのだろう、とは思う。ひょっとしたら『窓枠』の中にこそ自分の本当に求める仕事があったのかもしれない。けれど、僕は教師という仕事に出会い、仕事が楽しい自分になった。それで良いんだと思う。僕は「生涯いち教師」を目指すことに決めたんだ。

ビルはほど遠い町に住み、僕は教師になった。これでいて、けっこう生徒に好かれている。校舎の窓の中には、明るい顔が収まっている。

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