【公益財団法人勤労青少年躍進会理事長賞】

【テーマ:さまざまな働き方をめぐる、わたしの提言】
私の選択
静岡県  神尾明香  36歳

母が私を産んだ年齢になった今年、両親が結婚50周年をむかえた。

結婚50周年を記念してささやかな食事会の席で、私は大学進学を控えたころに両親に言った一言を後悔した。

「私、お父さんとお母さんの作った会社で仕事は絶対にしないから」

私が小学校入学するころ父は高校教師を辞め、「悩みを抱えている人のために、相談できる場所を作りたい」と母と二人で小さな有限会社を作った。いわゆる「カウンセリングルーム」だ。年の離れた兄姉は大学に進学した頃だった。30年近くも前の話だ。

父は、母と二人で始めた仕事が本当に好きだった。家族団らんの時間はほとんどなく、ご飯を食べているときも、テレビを見ているときも、両親の会話は「仕事」の話だった。私は、家でも仕事の会話をしている両親がすごく嫌だった。私の話を聞いてほしい、私にも話をさせてほしい、そんな気持ちが大きかった。中学生になったころには私の口数は少なくなり、両親の仕事に対して無関心だった。

私が高校生入学の年に、東京で仕事をしていた兄が地元に戻り、両親とともに仕事を始めた。ますます家の中での会話と言えば「仕事」の話だった。兄が戻ってきて父は喜んでいた。

私はますます両親とは違う道に進もうと考えていた。大学進学の時、父は「心理の勉強や、教職の免許を・・・」と言っていたが、私は家から近いという理由で国際関係学部に進学をした。両親の仕事は絶対にしないという証明だった。進学した私を見て、さすがの父も、「お前は、自分の進みたい道を進みなさい」と言ってくれた。私もそのつもりで進学その後就職をした。

私は大学卒業後、地元の企業に就職した。給料もかなりよかった。仕事では毎日数字とにらめっこ。期限内に正しくこなせば良い仕事だった。やりがいの有無より、期限内に正しくできたことで満足していた。両親の仕事とは無縁であり、毎日家族と食卓を囲むこともほとんどなくなった。食卓で両親の「仕事」の話を聞くこともなくなった。自分の進む道はこれでいいのだと思っていた。

しかし、就職して1年が過ぎたころ、父から「お父さんの仕事を手伝ってくれないか」とオファーがあった。障害を抱えた人やひきこもりの経験をしたひとのために、街の中心に喫茶店を開店したい、と。三度の飯より珈琲が大好きな父の最後の希望だった。60歳を過ぎたら喫茶店のオーナーになりたいと言っていた父の希望を叶えたいという気持ちと、「私は私だから」といって、両親とは違う道をすすむと決めた自分との葛藤がうまれた。

父はいつも「夢」を語る人だった。しかし、口にした「夢」はしっかりと実現してきた人だった。その父の口から出た言葉には「喫茶店オーナーの夢」だけではなく、障害を持っている人が街の中心でスポットライトを浴びてもいいではないかという「情熱」と「新しい発想」だった。

何十年も父の発する言葉を聞いてきたつもりで、どこか心の中で否定していた。それは父の情熱や発想に気がつかなかったからだ。特別な資格を取ったわけでも、専門的な勉強をしてきたわけでもない私が必要な理由は何かと尋ねたら、父は「想いや情熱があれば資格も知識もいらない。実践あるのみだから、からだで仕事を覚えればいい」と言ってくれた。

父の作った会社で勤続13年をむかえた。13年の間に、結婚・出産をし、家族も大変さも増えた。毎日の仕事と家庭の両立が精いっぱいだ。ふと気づいたら両親が作ったNPOは大きくなり、また両親の想いを理解し、実現させようとしてくれている仲間(スタッフ)がいた。特別な資格や知識はまだ持ち合わせていないが、私には誰にも負けない情熱と仲間に囲まれ、今の仕事に誇りを持っている。仕事は何ができるかも大切だが、「何がしたいか」が大切であるとも感じる。私は両親の想いに共感し、小さなこの街で障害者やひきこもりの方々の支援を行っている。どんな形であっても「人のため」になれば私は幸せだ。

これが私の「選択」である。

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