【公益財団法人勤労青少年躍進会理事長賞】

人生は数奇だ
北海道  木村美貴  37歳

人生は数奇だ。

いい高校に入って、いい大学に行って、いい会社で働く。それが当たり前だと思っていた。

そんなフルコースみたいな人生が待っていると、そう思っていた。

私には勉強しか取り柄がなかった。勉強は才能がなくても出来る。

そんな私の人生に陰がさしたのは、自分が地道に生きることから逃げた瞬間からかも知れない。一歩立ち止まって考える事を怠ってしまった。

新卒で有名な会社の本社に入り、その仕事に悩んでいる時に、運良くヘッドハンティングしてくれたデザイン会社に転職した。

好奇心旺盛な私にとって、デザイン業界は何もかもがキラキラして見えた。「職場は新橋」から「職場は西麻布」。文字にするだけでもこうも違う。たったそれだけのことが20代の私には特別に思えた。

そんな私も結婚し、お腹に子供が出来た。子供が出来ると私にも危機感が出てきた。生まれて初めての現実、だ。

夫はいい人だがこよなく寝坊を愛する人で、家賃が彼の月給を越す、という事態になった。

お金の事で喧嘩をしていればそんな状況も回避出来ていたかも知れない。

私にはお金でもめる事が恥ずかしい事のように思えた。

だから一人で乗り越えようとしてしまった。

臨月まで働き、脳内出血になった。後で知った事だが、臨月が近付くにつれて血液はよりサラサラになるのだそうだ。

産婦人科の主治医に「いつ生まれてきてもいいね」と太鼓判を押され、それから2日後の朝に倒れた。

その日は運良く年末仕事納めの日で、医師が揃っていた。運良く母が来ていた。運良く総合病院の産婦人科にかかっていた。多くの人に生かされて、今ここで私は文章を書いている。

「赤ちゃんは大丈夫でしょう。しかしお母さんは分かりません」と脳外科医に言われた時、母は「ああ、もうあの子に会えないのかもしれない」と思ったそうだ。

普通にお母さんになれると思っていた。でも出産はリスクが高いという事も、妊婦死亡率のトップが脳内出血だという事も、自分が経験して初めて知った。

10年経つ今も、私も主治医も、なぜ脳内出血になったのか原因が分からない。

運良く生き延びた私は、左脳を半壊し、右半身麻癖が起こり、母国語も失った。つまり日本語が話せなくなった。今も流暢に話せず、一回確認して五十音を探る。

子供と一緒に新たな生を受けた私は、今は娘にも負けてるんじゃないかと思うほど語彙力に乏しい。悔しい、と思う。言ってしまえば28年分の人生のデータが飛んでしまった。大誤算だ。順風満帆に見せていた私の軌跡が崩れていった。

上手く話せないところから癇癪を起こすようになり、子育てどころではなかった。

気付くと、子供の頃から私が描いていた未来と、全く違う人生が目の前に広がっていた。キラキラしていた生活が、瞬時にモノクロになった。毎日泣き暮らし、絶望の上、死にたいと思った。でも同じ時間を過ごすなら、笑って過ごせるようになりたいと思った。やっと重い腰を上げ、仕事を探し求めた。

障害者である私を雇用してくれる所はなかなか見つからない。失ったものが多い私が失わなかったものが、人との繋がりだ。

家族、友達、恩師の想いがそこにあった。有り難かった。言葉では語りつくせないほどの想いが溢れてくる。母が「何かになろうと思った時、何にでもなれるように教養を身に付けなさい」と言ってくれた事。勉強は教養の大切な一部だ。「運良く」という言葉は、本当に運が良かった訳ではなく、母が私を導いてくれたおかげで今の私がある。

仕事をすることも同じ。「想い」だ。想いがなければ仕事も、味気なく、寂しいものになってしまう。

選べる仕事があるのは幸せな事だ。どんな仕事も社会の一端を担っている。それによって、生活が支えられ生かされている。

仕事が出来る事は私にとって誇らしく、安心して日々を過ごす事が出来る財産だ。想いを以って。

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