【佳作】
私が大学を卒業して就職したのは、医薬品の生物に対する影響を調べる会社だった。大学では農学部で生物化学を学んでいたため、希望通りの会社に就職できた。部署も主に分析を行う部署で、私が学んできたことを生かせると入社前から仕事が始まるのが楽しみだった。
そして仕事を始めて半年ほどはまだよかった。先輩について助手のようなことをしながら仕事を覚えていく。新しく学ぶこと、体験することも多く、日々成長できていると感じられた。その一方で気になるのが就業時間だった。仕事の性質上、自分が担当している実験を一人で担当して、一人でクライアントへの報告書を仕上げる。動物の飼育、薬品の投与、解剖などは他の部署が行うが、最終的な報告書は分析結果を出す私のいた部署が仕上げるようだった。そのせいか他の部署に比べて先輩社員の帰宅時間は遅く、実験が終わらなければ夜通し分析機器の前で過ごすこともあるようだった。
入社して半年ほど経った辺りから、私も簡単な実験を任されるようになった。最初は任されたことに喜びを感じ、早く一人前になろうと意気込んでいた。しかしその時はまだあまり気にしていなかったが、少しずつ体調に変化が表れ始めていた。
仕事にやりがいはあった。だがやはり一人にかかる負担が大きかった。毎日夜遅くまで会社で過ごし、途中でお昼休みをとることもままならなかった。夜は食事も摂らずに寮に帰って寝るだけという日が多くなった。
会社の場所も職種柄あまり民家がないような田舎にあった。そのため買い物にも困り、週末に時間を見つけては一週間分の食事用にまとめ買いをしておく。仕事が終わっていなければ休みの日も出社して報告書をまとめたりしていた。今思えばそんな状態は普通ではないと分かる。しかし当時の私はそのような仕事の仕方が普通なのだと思っていた。先輩社員も同じように、またはそれ以上に一人に負担のかかる仕事の仕方をしていたからだ。
三年目に入るころにはますます仕事の量と責任が増していき、私は心身ともに疲れていた。そしてある日、片耳が聞こえていないことに気が付いた。それからは毎日のようにいろいろな症状に悩まされるようになった。
生理が来なくなり更年期障害のような症状が出たり、咳き込み始めると止まらなくなるようになったり。さすがに心配になり病院へ行って検査をしても特に異常はなかった。
ある晩、やはり咳が治まらず呼吸困難のような状態になり救急車を呼んだ。そこで当直だった医師に最近の体調不良の話、検査をしたが異常がなかった話をした。するとその医師から初めてある病気の名前を聞いた。
「パニック症候群」
それはストレスからくる体への異常警報のような病気で、あなたの心身が悲鳴を上げているんですよと言われた。私はそれまで自分はストレスに強い方だと思っていたので正直驚いた。でもそう言われてなぜだかスッと気持ちが楽になった気がした。それは体調不良の原因がわからず、ずっと苦しかった自分を自分自身が理解してあげられたような瞬間だった。
その後就職して五年目で、私はその会社を辞めて体調を戻すために実家へ戻った。あの時仕事を辞めることは自分を守るために必要だったことだと思う。仕事をするうえで、もちろんやりがいや努力は必要なことだろう。しかし、自分の心や体が本当に悲鳴を上げているとき、それに気づいて助けてあげられるのも自分だろう。また、多くの仕事でお互いが助け合える方法を模索し、より質の良い仕事を効率的に進められるよう働き方を考えていくことは、労働力人口が目に見えて減ってくるこれからの日本の社会全体の課題だろうと思う。