【佳作】
私の家は四人家族で専業農家だった。休日は朝から野良仕事を手伝ったものだ。
子供の頃学校から帰ると、まずちゃぶ台の上のメモを見た。姉はそこに書いてある田んぼへ行った。
私は指示された家事をした。洗濯物を取り込み、買い物に行って夕食を作った。夕闇と共に父母と姉が帰ってくるのだった。
昭和三十年代。子供が家の仕事を手伝うのは当たり前の時代だった。もちろん遊びたいと思う気持ちはあったが、働くことは嫌ではなかった。父には心臓病(狭心症)の持病があり、時々農作業中に発作が起きて、しゃがみ込むこともあった。だから少しでも父母の役に立ちたかった。
幼い頃から田畑で遊び、見よう見真似で仕事を手伝うと、母が笑顔で言った。
「おかげで仕事が捗ったちゃ」
「おお、猫の子よりましや」
父も大きな手で頭を撫でてくれた。日焼けした父母の笑顔が見たくて、田植えも稲刈りも習い覚えた。畦に豆を植えるのは姉と私の仕事だった。台風のために稲がベッタリ倒れると父母の顔が曇り、私は心配だった。野菜が鳥や虫に食べられると腹が立った。
田んぼの畦に腰かけて食べた薩摩芋のおいしかったこと。やかんの麦茶で喉を潤し、おしゃべりもはずんだ。父母が仕事の段取りを話し合うのを聞いて、夫婦が一緒に働くのはいいなと子供心に思った。
父の身体を気づかう母をみて育った私は、長じて看護師になった。職場結婚をして、医療ソーシャルワーカーの夫と同じ病院で働いた。当時、職員同士が結婚すると、どちらかが他の病院へ転職する人が多かったので同僚からよく訊かれた。
「ご主人と同じ病院で働くの嫌じゃない?」
「ぜんぜん。話題が共通で、いいものよ」
私は笑って答えていた。
看護はやりがいのある職業だ。口から食べられなかった患者が、ゼリーを一口食べることができた時は、患者やその家族と共に看護師皆で喜びあった。また、患者から悩みを打ち明けられ心が通じ合えた時や、元気になって退院される時など、看護師になって良かったと実感した。
しかし職場は楽しいことばかりではない。苦しみや怒りを看護師にぶつけ、トラブルをおこす患者もいた。時には上司の要求に答えられず、能力不足に自分を責めたりもした。同僚との人間関係に悩んだり、逃げ出したくなることもたびたびあった。
家では夫とお互い愚痴を聞きあった。同じ職場だからよく理解でき支えあえた。働く場が田んぼと病院の違いはあったが、夫婦が一緒に働くことは幸せだった。
子供の頃、父母と一緒に働いて、稲作や野菜づくりにも新しい知識が必要なことや、仕事の手順や計画の大切さを学んだ。それは看護においても同じだった。常に医学は進歩している。新しい知識を学び、一人一人の患者にあわせた看護計画を立てて看護しなければならない。
田畑で一生懸命働けば、米や野菜もそれに答えてくれ、よく実った。看護する時も、心をこめてケアすれば患者の信頼を得ることができた。
野良仕事を家族皆で協力すると収穫の喜びも大きかった。看護はチームで協力して行う仕事だ。患者を中心に皆で話し合い、協力して継続したケアをしなければならない。
そして患者の回復をその家族と共に、医療従事者も皆で喜びをわかちあえる素晴らしい仕事だと思う。
私は看護師として四十四年間(現在はパートで)働いているが、その原点は父母の働く姿にあると思って感謝している。