「残念ながらお亡くなりになられました。」医師の極めて事務的な声が病室に響いた。いや、敢えて事務的に話しているのだろう。その瞬間涙がどっと溢れた。母が他界した。肝臓癌であった。母は働き者だった。私が幼い頃、父が事業に失敗し、莫大な借金が残った。思い出がいっぱい詰まった実家は他人の手に渡った。家計を助けるために、母は早朝から深夜まで馬車馬のように働いた。ある日、激務と過労で倒れた。我が家は貧しかったため、十分な治療や検診を受けることもできなかった。「もっと早く入院し、十分な治療をしていれば助かったかもしれない。」私の涙は、母を失った寂しさと後悔でもあった。
「ちゃんとした仕事に就かなあかん。お前は子どもが好きだからいい先生になるぞ。」が母の口癖であった。今となっては、その言葉は母の遺言になってしまったが、元来、子どもが大好きであった私は教員になった。小学校の教員になりたかったのだが、採用は中学校であった。「教員になれたからいいじゃないの。」と周りは慰めてくれたが、自分の希望が叶わず私は腐っていた。
初任者として赴任した学校は、いわゆる生徒指導困難校であった。授業に行っても数名教室にいない。エスケープだ。その生徒の捜索から始まる。黒板に机が飛んできたこともあった。空き時間は、教室に入らない生徒の対応に追われた。「うるせい。勝手だろ。」と罵られた。金八先生のような学年ドラマは、トラブルが起こっても最後はハッピーエンドで終わる。しかし、現実はそんなに甘くなかった。「あの生徒さえいなければ。」「小学校勤務だったらこんなことはなかっただろう。」等と私は都合のよいことばかり考えていた。
土日は当たり前のように部活動の指導に追われた。当時は、実家から離れて遠隔地の勤務であったため、帰省することも殆どできなかった。病弱の母を抱えていたが、介護は父に任せきりという状態であった。私は、心身共に衰弱していた。正直「教員を辞めようか。」「自分は先生に向いていないのでは。」と思ったこともある。しかし、教員を続けることができたのは、母の遺言があったからだと思う。
教員になってから十年後、同窓会の案内が届いた。主催者は、私が初任者の時に担任した生徒たちだ。正直、私は回答に躊躇したが気が付くと出席に丸を付けていた。同窓会当日はある意味決意と緊張感をもって参加をした。「子どもたちは、私を受け入れてくれるだろうか。」という一抹の不安が脳裏をよぎった。予想とは裏腹に会は終始和やかで、知らず知らずのうちに私自身も同窓会の空間を楽しんでいた。一番手を焼いた生徒が私に酒を注ぎに来た。開口一番に「先生が思い切り叱ってくれた有り難さが今になって分かる。」と話してくれた。当時は、苦しさや辛い思い出しかなかったが教師冥利に尽きる言葉を話してくれた。私の目から一筋の涙が流れた。「今の自分があるのは、先生のお陰だと心底感謝している。」とも語ってくれた。外見は変わってはいるが、心は中学生のままピュアであった。
私の指導力のなさや至らなさもあったと思うが、警察や児童相談所にもお世話になった生徒である。当時は、私自身が「どうして伝わらないのだ。」と嘆くこともしばしばあった。
中学生の頃には伝わらなかった自分の願いが十年越しに伝わったのだ。その時、「子どもの成長こそが教員にとっての最大の報酬なのだ。」と再認識をした。子どもたちは、すぐには変わらないが「いつかは必ず変わる。」「いつかは必ず通じる。」という信念と熱い思いをもって接すれば必ず伝わることを身をもって私は体験した。この出来事が私の教員生活において大きな糧となり、礎ともいうべき転機ともなった。
現在、私は、小学校に勤務をしている。教員生活30年目にしてようやく念願が叶った。しかし、小学校は、小学校なりの厳しさがある。電通の案件以来「働き方改革」の波が教育現場にも押し寄せ、「教員の仕事はブラック企業である。」とも言われている。ノー残業ディの実施、授業研究の精選、会議の見直し等に積極的に取り組んでいる。教員の仕事の厳しさが先行し、教員を志す若者が減少傾向であることは否めない。そうした現実を真摯に受け止め、教員としての生きがいや教職の魅力を発信していくことが自分に課せられ最大のミッションであると思う。そうした決意を母の遺影の前で固く誓った。母は微笑んだようであった。