【努力賞】
【テーマ:仕事をしたり、仕事を探したりして気づいたこと】
マイティ・ハーキュリーになりたい
山形県  佐藤一恵  56歳

祖父母に託されたのは、妹が10ヶ月の乳児で私が3歳のときです。当時、祖父は出稼ぎで家に居なかったので、祖母は畑で少しばかりの野菜を作っていました。

2年ほど経って畑にむかう途中、祖母と愛犬ブイがリヤカーの前方を引き、木のりんご箱に入った妹は荷台の真ん中に、後ろは小さい手で私が押していました。舗装されてないデコボコの山道は緩い登り坂でしたが、リヤカーのタイヤがいつも砂にはまってしまうのでした。ある日、何度トライしても脱出できず、ヘトヘトになって道端で休憩しているとき、祖母に駆け寄り叫んだ私。

「ばあちゃん!マイティ・ハーキュリーになる。大きくなったらマイティ・ハーキュリーになって、ばあちゃんをいっぱい助ける」カナダで製作されたマイティ・ハーキュリーは、1963年から1966年に日本でTV放送されたアニメです。困っている人を助け悪者を退治するスーパーマンでした。

その後、生活苦から一念発起、大正生まれ尋常小学校卒の45歳の祖母は、車の免許を取り、青果市場の仲買人になりました。中古のダットサンの助手席に妹と私を乗せて、行商を始めました。冬場は、雪の吹きだまりで車が立往生したり、側溝に落ちて助けてもらったことも多々ありました。直に、出稼ぎを切り上げ祖父が戻ってくると行商は祖父母の仕事になり、妹と私は保育園に通いました。

離婚と同時に美容師になる決心をした母に、祖母は当初、日銭を稼ぐよう懇願しましたが、「子供に学級費をあげられる親になりたい」と反対を押し切り、市内の美容室で住み込みで働きはじめていました。

美容室見習いの給料から、月賦で買った母のランドセルを背負い、私は祖母と小学校の入学式に出席しました。

まだ若い24歳の母に祖父は、「2人は俺達の子として育てるから、もう一度花を咲かせてくれ」と悟しましたが、「これ以上子供と離れては生きていけない」と母は何度も何度も泣きました。

バス代が無くて、私たちに会いに帰るのは数ケ月に一度でした。

美容師の国家試験にパスしてから、お世話になった美容室で3年間務めた母は、私が小学校2年の秋、地元で美容院をオープンしました。母と祖母が選択したのは、子供をみながらできる仕事でした。常に目標と責任を持ち続け、逆境にあっても屈せず、前向きに正直に生きる姿を人生を通して、私の魂に深く刻んでくれました。

祖父の病気がキッカケで、行商は私が引き継ぎ39年。最近は、野菜の生産農家の旬の食べ方を調べたり、野菜や果物の特徴を調べて、常連さんや持病のあるお客さんにアドバイスできるよう勉強中です。

この仕事に足を踏み入れたときから、祖母のマイティ・ハーキュリーになれたつもりでしたが、ゼロから祖母が開拓し作りあげたレールを走っていたことに気づきました。祖母は、私のマイティ・ハーキュリーだったのかもしれません…

日々、祖父母の遺影に手を合わせ、「じいちゃん、ばあちゃん、おはよう!今日も行って来ます!」

朝の挨拶が日課です。

いつか、本当のマイティ・ハーキュリーになりたい。まずは、自分のごく近い人から倖せにしたい。

戻る