パリで仕事をしていたのは、半世紀も前のこと。本社との日々の連絡は、緊急時には電話、それ以外は電報であった。国際電話はとても高かったので、使用にあたっては支店長の認可を得なければならなかった。今の通信事情からみると、当時はなんとも原始的であった。
電報は職場から打てるわけではない。中央電報局まで持って行かなければならない。私が一番下っ端だったので、夕方から夜にかけて社内で電報を集め、メトロに乗って出しに行った。それで、帰宅はいつも10時過ぎか、真夜中を過ぎることもあった。
一日の終わった街は、街路樹の葉が散っていた。それをカサカサと踏み分けて歩くと、なにか侘しさを覚えた。それが、朝出勤するときには、打って変わってきれいに片付けられている。そんな中を会社に急ぐと、「今日も頑張るぞ!」とのファイトが湧いてきたものだった。
道路清掃は、朝早くから主にアフリカからの出稼ぎの人たちがやっていると聞いてはいたが、まだ出くわしたことはなかった。こんなにやる気と元気を与えてもらっているのだから、一言お礼を言いたいと思っていた。
同僚にそんな話をすると、「それが彼らの仕事なのだから、特に礼を言うことでもないだろう」と、一蹴された。彼らにとっては義務の仕事であっても、私にとってその生み出された成果はとても気持ちのいいものであり、「メルシー」くらいは言いたかった。
あの道路を清掃している人たちはどうだろうか。少なくとも、出勤する人たちにいい朝を迎えてほしいとの気持ちを持ち合わせていたのではないだろうか。そうでなければ、あれほどきれいに掃き清めるわけがない。彼らは感謝されたくてやっているのではない。私は、「メルシー」と言う機会はなかったが、心ではいつも感謝するまでになっていた。
そのうちに、私ももっと仕事の成果が見える現場で働いてみたいと思うようになった。パリでは、アフリカの報道が目につく。どの国もまだ独立して日が浅く、国づくりに先進国からの資金援助と技術協力を渇望していた。当時私はまだ25歳であったし、アフリカで3,4年活動しても、また日本でリカバリーできるだろうとの思いがあった。アフリカでなら現地の人との直接のコンタクトの中で、顔の見える仕事ができそうだ。
会社を辞めてアフリカに行くと言うと、支店長から何をとぼけたことを言うんだとの顔をされた。それでも揺るがないとみると、「思いっ切りやって来い!」と後押しされた。それで不安が吹き飛んだ。
私が行った先は、東アフリカ・タンザニアだった。長らくイギリスの植民地で、1960年に独立した。とにかく貧しい国だ。ただ援助をしてもらうだけでは発展がないので、先進国から若者や技術者を派遣してもらい、技術移転の指導を受けていた。
私もその一人としてタンザニアの農村に入り、農業指導、生活改善、環境保全、識字教育などで、村人たちと直にコンタクト、コミュニケーションを取った。顔の見える指導なので、毎日村人たちとの接点があり、反応もすぐに得られた。これこそが私の目指した仕事のやり方だった。「華やかな生活と高給を投げうってまで行くのか!お人好しもいいところだ」と、友人には理解されなかったが、勇気を出して乗り込んでよかったと思った。帰国後、仕事の先にいる人たちのことを視野に、働くようになった。