【努力賞】
【テーマ:仕事をしたり、仕事を探したりして気づいたこと】
親から学んだこと
栃木県  野尻敏夫  81歳

父は尋常小学校を卒業すると石材店の子飼いに出された。親方や兄弟子にたたかれながら石工の技を磨いた。父が積んだ墓石や石垣はどんな地震にも崩れたことがないと、巷の声を伝え聞いたことがある。病知らずの頑強な父だったが終戦直後、仕事先で腐った物でも口にしたのか、一昼夜苦しんで逝ってしまった。

女中奉公から見合いで嫁いだ母は、親方一家への奉仕の賄いから解放されたものの、まだ九歳だった私を抱えて敗戦後の混乱期に突入したのだった。奉公先や石材店でのお手並みを見込まれて、常に複数の世帯の家事を引き受けて働き、夜は内職に精を出して何とか食いつないだ。

私の中学校卒業を控えた暮れに、突然、石材店の親方がやってきた。石工の見習いとして面倒をみたいとの申し出だった。5年間縁切り状態だったとはいえ、夫の親代わりでもあった親方が心配してくれての好意に、母は、「働き口は、いずれ息子が自分で決めることですから…」と、まるで一喝するかのような物言いで辞退していた。息子の生涯を決める正念場と、心を鬼にしたようだ。親方に二の句をつがせぬ即答ぶりに、私は胸をなでおろした。

実は中学2年生まで、画家を夢見ていたのだ。印象を誇張した構図と色彩が先生の目に留まり、舞台装置の肖像画を描いたりして内心得意になっていた。

しかし、当時は奨学金制度などなく、母子家庭では芸大どころか高校進学もおぼつかない。収入を得て母を早く安心させたい思いが強かったのに、就職を話題にできずにいたのは画家への道に未練があったからだ。

母はそれを見抜いていて、自分たち夫婦のように親が子の進路を決めてしまいたくなかったのだ。就職を決めたのは父だった。いや、父と面識のあった見知らぬお婆ちゃんで、石臼やら側溝の蓋など何かと石工の技で無償修理をしてもらっていた市民の一人だった。「絵描きが無理なら先の話にして、蒔絵で食べていってみない?」と、蒔絵の工房を教えてくれたのである。お婆ちゃんは、絵が好きな私のことを父から聞かされていたのだと言う。

工房に駆け込むとほとんど即決で、親方に弟子入りを許された。多分、お婆ちゃんから下話でもあったのだろう。眼に飛び込んできたのは、松の枝葉が蒔絵された花嫁さんの下駄や、花が優雅に描かれたサンダルの行列だった。こけしの絵の焼き下駄も…。

漆や胡粉や金粉、様々な型紙そして兄弟子たちに囲まれ、厳しい工房で張りつめた仕事がスタートして、つくづく両親の心意気をありがたく思った。私の個性に寄り添ってくれた母や父の知り合いに、感謝感謝である。

父を真似て「本が大好きな娘が司書の資格を取った」と話しておいた知人の一人から、図書館を斡旋されて大喜びした経験がある。

周囲の人達に個性を知ってもらうことの大切さを、就職を通して学ばせてもらった。

その後職場を替えても、自分らしい着想を積極的に仕事に反映させるよう努めてきた。学力や履歴が無くても、努力次第で働く場は好転していくものと思えるようになった。

たとえ凡人と思われても、隠れた長所、取り柄は持っているのだ。父と母はその時代や家庭の事情で親の決めた職に就いたが、人の心を打つ良い仕事ができたのは、並々ならぬ努力がそれぞれの持ち味を引き出したからである。

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