【一般社団法人日本勤労青少年団体協議会会長賞】
相模原事件で障がい者が惨殺されてからはや1年が経つ。彼ら彼女らはどのような思いで亡くなっていったのだろうか。
私は多発性硬化症という難病を患っている。脳の神経やせき髄に障がいが出る可能性がある治らない病気であるので、私自身、いつ障がい者になってもおかしくない身体である。20歳の時にこの病気に罹患したときは、自分がこれからどのようになるのだろうか、と不安になった。大学を卒業しても職に就けるのだろうか、結婚はできるのだろうか、こどもは産めるのだろうか、そもそもどのように社会と関わっていけるのだろうか、と不安はつきなかった。就職活動をしても、経歴的には雇いたいけれども病気のことがひっかかると言われ、就職活動は困難をきわめた。高校時代にアメリカ留学をして、東京大学を卒業して、TOEICも900点で、と世間的にはピカピカの履歴書だろう。しかし、病気が1つあるだけで社会はなかなか受け入れてくれないのだ。病気によって差別してはいけないと言いながらも、いつどうなるのかわからない病気を持つ人にたいして、世間は思いのほか冷たい。
一見して障がいもなく、健康そうに見える私でもそうなのだから、障がい者の方にとっては本当に生きづらい社会であろうと想像できる。就職だけでなく、世間から自分は社会にとって必要な存在であるのか、迷惑をかけているだけの存在ではないのか、そのように考え始めたらきりがない。
私は結婚後、夫にそのように言われ続けた。お前を雇ってくれるような会社はどこにあるんだ、女が働いている家庭なんかない、難病の人なんて雇いたくないし、社会も必要としていない、など、心がえぐられるような言葉を浴びせられた。自分が難病にさえならなければこのような思いはしなかったはずなのに、どうして私だけが、と自殺を考えたこともある。しかし、そこで立ち止まっていてもしょうがないと、何くそと歯を食いしばって社会と関わることを探し始めた。街をよくするためにまちづくりの活動をし、その関係で行政の委員にもなった。教育や医療、観光やまちづくりなどさまざまな活動をした結果、地元のローカルTV局の情報番組のコメンテーターにもなった。難病でも社会に必要とされたい、社会とつながりたい、と思い、何かの行動を起こせば必ずそれは実を結ぶ。自分は何もできない、と殻に閉じこもっているだけでは何も前に進まない。社会が悪い、認めてくれないと泣き言を言って過ごすのも一日。それでも私は何か社会のために働きたいと考えて動くのも一日。同じ一日であれば、後者の方が私は笑って過ごせる可能性が高いと思う。
とは言え、そんなにポジティブに生きていけない、と考える社会的弱者の方たちも多いだろう。障がい者や難病患者などは働かずに生活保護をもらって毎日ゆっくり生活できていいね、などと言われることでどうしようもなくつらい、と思う方も少なくない。混沌とした経済環境、社会状況の下、他人のことなんて慮る余裕がない日本人も増えているのも事実だが、そんな中でも働きやすい会社を作っていくのが重要ではないか、と思う。日本理化学工業のような会社を手本に障がい者や難病患者のような人が笑って就労でき、自分が社会に必要とされている場所を全国につくっていくことが必要だと思う。理想かもしれないが、私は地元徳島でそれができるように会社の社長たちに講演をし、1人でも多くの方を雇ってくれるように働きかけている。社会の一員になりたい、という願いは普通の方からするとささやかな願いかもしれない。でも、その願いをかなえるためには一方ならぬ努力が必要な人もいることを知ってほしい。まず知ってもらうために行動すること。これが自殺をしなかった私が社会に関わるうえで今、一番大切にしたいことである。無念の中で亡くなられた方のためにも私は人が有意な存在であることを伝えていきたい。