【佳作】
「お母さん」と陰であだ名を付けていたMさんという同僚女性がいる。目上の方に向かって失礼な話だが、どうしても「お母さん」と揶揄してしまう程、小言の多い方なのだ。
仕事の進め方や電話対応はもちろん、やれ机の上が散らかっている、爪が長い、文房具が派手等と難癖を付けてくるのである。私の手作り弁当を「彩が悪い」とケチを付けられた時は閉口してしまった。
ある時、Mさんと共同で行った仕事の中に、大きなミスがあった。最終的にMさんがチェックしたとはいえ、元々は私が任され、私がミスをした仕事だった。事情を知らない上司はMさんを厳しく注意した。Mさんは私の名を一切出すことなく、ミスは自分の責任だと謝罪した。
部長に名乗りでて一緒に謝るべきなのは分かっていたが、私はMさんが頭を下げるのを見つめるだけだった。このままなかったことにすればいいと思いながらも、Mさんの目を真っ直ぐ見られない日が続いた。
そんな折、十日程の短期入院をすることになった。Mさんと気まずかったこともあり、神様が少し休みなさいと言っているのだと都合よく考え、半月の病欠届を出した。
検査入院だったが、上司や同期社員が見舞いに来てくれた。Mさんは姿を見せなかった。「あんな事もあったし、元から嫌われていたんだ。療養中に顔を見なくてすんでラッキーだ」と考えながら退院した。
職場に復帰して、いざデスクに座ると違和感があった。カラフルなメモ帳、お気に入りの文房具類、ぐるりと机上を見渡しても以前と変化はないように見える。不思議に思い、同期社員に訊ねた。
「私が休んでいる間、机周りに何かあった?」
同期社員はしばし思い巡らせた後、あっと声をあげた。
「そういえば、Mさんが毎朝あなたの机を水拭きしてたよ」
はっとして慌ててデスクに戻ると、言われてみれば半月席を空けていたのに関らず、埃一つ落ちていなかった。入院前より綺麗に磨かれているほどである。
しばらくしてMさんが出勤した。今しかないと意を決して声を掛けた。
「入院中、机を拭いてくださっていたようで、ありがとうございました」
Mさんはパソコンを立ち上げながら、そっけなく答えた。
「ただでさえ汚い机なんだから、目に余って埃を拭っていただけよ」
相変わらず、一言多い。せっかく素直にお礼を言ったのにとむすっとしていると、Mさんは今まで見たことのないような柔和な笑みを見せた。
「検査結果、問題なかったみたいで良かったね」
私ははっとしてMさんの目を見つめた。その時やっと、もう一つ伝えなければいけない事を思い出した。
「あの時のミス、私の責任でもあるのに名乗り出なくてすみません」
その事を改めて部長に伝えにいくと言うと、Mさんはその必要はないと私を制した。
「もう済んだ事だからいいじゃない。お互いこれから気を付けよう」
Mさんはふふっと微笑んで続けた。
「あなた、私の娘にそっくりなの。意地っ張りでおっちょこちょいで。だからいつも口うるさくなっちゃって、ごめんね」
私は羞恥で俯いた。Mさんが「口うるさいお母さん」なら、私は「反抗期で生意気な娘」だった。「ありがとう」と「ごめんなさい」をきちんと伝えるという、子供でもできることができていなかった。
「今度、体にいいお弁当のおかず教えてあげるわ」
そう言って私の肩を叩くMさんは、やっぱりお母さんみたいな人だった。
あの日以来、どんな苦手な上司でも仕事を教える立場にある後輩にも、「ありがとう」と「ごめんなさい」はきちんと伝えるよう心がけている。人として当然のことだと他人が聞けば笑うかもしれない。しかし以前の私のように、そんな当たり前のことができていない社会人は、意外といるのではないだろうか。そして「ありがとう」と「ごめんなさい」が日常生活に増えると、職場環境や社会は、より潤滑になるのではないだろうか。
そんな事を考えながら、Mさんのレシピで作ったお弁当をお昼休みに広げる日々である。