私はこの春に大学生になった。高校を卒業し、新たな環境へと足を踏み入れた今、「働く」という曖昧な現実がより身近に迫っている。そんな中、「なぜ人は働くのか?」はたまた「働くとは何か?」といった単純な疑問を抱くようになった。世の中には、自らの命を削ってまで働く人がいる。本来は、生きるために働くはずなのに。個人差はあるだろうが、人々は「働くこと」に執着しているように思えてしまう。なぜだろう。
高校生の頃、私にとって働くことの意義は「人の役に立つ、国民として社会貢献する」ことだった。
働くことが必要かどうかなんてことは全く頭になかった。働くことの意義の多様性なんて考えたことすらなかった。
意義なんて無数にある、最近になってそう思うようになった。
先日、警察官僚として活躍されている方にお会いする機会があった。小説やドラマの影響なのだろうか、警察官僚という仕事に対して、圧倒的な正義感をイメージしていた。どんな内容の仕事をしているのか、どのくらい忙しいのか、職場における人間関係はどうか。いろいろ質問してみた。ふと思い出したかのようにこんな質問もした。
「どうしてこの仕事を選んだんですか?」
「なんとなく、本当になんとなくなんだ」
「でも、すごく人の役に立つ仕事ってイメージがあるし尊敬します」
「人の役に立たない仕事なんてないよ」
確かに。最後にこう仰っていた。
「やりがいはある。自分にしかできないことを増やしていきたい。それこそが社会人としての自分の存在意義だと思っている」
分かるような、分からないような…そんな感覚だった。
そういえば、太陽光発電の研究者として働く父親はこう言っていた。
「安心・安全な発電はこれから先、絶対に必要。なんとしても、成果を出したい。それが働く意味」今思うと、普段は能天気な父が珍しく真剣な表情で語っていた。
難しい。人によって仕事へのモチベーションや価値観は様々だ。それなのに、どうして人々は同じ「働く」ことに意識を向けているのか。私自身も、将来働くことは当然のこととして受け入れている。改めて働く目的について考えてみると、実にたくさんの動機があるのだと気付かされた。食べていくため、仕事が楽しいから、働かないことへの罪悪感を避けるため、自身の存在意義を示すため、いくらでも思い付く。
人々が仕事に意義を見出すのではなく、仕事が人々に意義を与えているのではないか。だからこそ、人々はみな「働くこと」に執着しているのではないだろうか。「働きたくない」と言いながら結局働いてしまうのは、内心では労働が自分に与えてくれる意義にすがっているのではないか。
仕事が持つ引力は大きい。仕事が人々に与えるものは大きい。それによって救われる人が数え切れないほどいるだろう。
少しワクワクしてきた。将来、仕事は私にどのような価値観を与えてくれるのだろうか。その時、自分が本当に必要としているものが何かが分かるのかもしれない。