小学生の最後の夏。塾の帰りの車の中で、帰郷していた母から電話がかかってきた。「あのね、おじいちゃんが天国へ行ったの。」母は小学生の僕の心に傷をつけないよう優しく、丁寧にゆっくりと言った。電話越しの震える声、だけど僕はなぜか泣かなかった。泣けなかったのだ。おじいさんは僕が生まれた時から脳の病気を持っていた。僕の物心がついた時にはおじいさんはもううなること以外に何もできなかった。僕はただ毎日おじいさんが無防備で、寝たきりで介護されている様子を横から見ているだけだった。しっかりとした意思疎通はできなかった。でも、パソコンの動画通話で画面越しに僕を見た時おじいさんはいつも笑ったような顔をしていた。幼すぎた僕はそれをおじいさんからのメッセージだと気づくことができなかった。母が帰宅するまで僕は何もすることができなかった。
中学生になったある日、僕は母に「おじいさんってどんな人だったの」と聞いてみた。すると母は「とってもあなたを愛していた」と言うと、おじいさんが、僕が生まれてとっても喜んだ話など世代は一つ離れているが俗に言う“親ばか”ともいえるエピソードをたくさん聞かせてくれた。僕は今までおじいさんとの接点は何もないと思っていたが、今度はその「愛」を確かに感じ取ることができた。その夜僕に一年越しの喪失感が押し掛け、またあの時に何もできなかった悔しさが一気にこみあげ、枕に顔を伏せ、声を殺してそのまま寝た。この時から僕は将来脳の病気を研究する医者になろうと決心した。僕はこのことを親にしばらくは言わなかった。高校入試は県で十番以内の成績で通過し、そのまま県で一番の進学校に合格することができた。高校二年生になってからは受験勉強が始まり、やる気やモチベーションが下がったりすると常にあの夜の悔しさを思い出して頑張ることにしていた。両親も僕が医学部を受験することを承諾してくれた。
高校三年生の統一試験受験一週間前、車で毎日学校まで送ってくれた母が「なんで医学部に行きたいの?」と初めて聞いてきた。僕は動揺して「なんだよ急に」といった後「脳の研究をしたい」と言うと、母は察したようで、「おじいさんも昔化学研究者だった。毎日楽しそうに研究していたし、いろんな発明もしていたのよ。おじいさんは勉強が得意じゃなかったけど、人の役にたちたいって気持ちが強かったからいい研究と発明ができたと思うの。」
僕はこの言葉に送られ、統一試験を終え、親に負担をかけないように国立一本の受験で見事合格することができた。大学は付属施設に脳の専門研究所があることが志望理由だった。
今僕は自分の夢の最初のスタートラインに立つことができている。これもすべて両親、友、自分を支えてくれた方々のおかげだ。研究医として何かすごいことを発見することはそう簡単なことではない。
自分がこれを発見したいと思っても発見できることではないし、今や経済的安定を求めて医学部受験をする人が多い中、研究医は臨床医と比べて圧倒的に給料が低くなるし、その上マイノリティーな存在だ。机と本に向かう毎日になると思う。でも僕はその運命を喜んで引き受けたいと思う。「人の役に立つ」これがおじいさんと母が、僕に与えてくれた生きがいで、使命だと思うから。