【努力賞】
【テーマ:仕事をしたり、仕事を探したりして気づいたこと】
母の料理が美味しくない
北海道  杉野友生  24歳

2016年11月、私は過労で倒れた。朝目を覚まし、出社の準備をしようと重い身体を起こした後、気を失った。

心身ともに限界だった。福祉用具機器の会社に営業として勤めていた私の仕事は多忙を極めた。入社して半年の私には到底こなす事の出来ない量の仕事に対して、とにかく早く正確に対応することが求められ、その作業は連日夜遅くまで及んだ。

しかし私はその生活に不満はなかった。朝から晩まで仕事をして、深夜近くに家に帰る。身体は疲れ切っていたが、仕事をこなしていく達成感が私を支えていた。それにここで根を上げてしまえば会社に迷惑がかかる。加えてこの仕事量でもこなしていける人がいるのだから、諦めてしまうのが悔しかった。とにかく有能な社員になりたかった。その想いだけで仕事を続けた結果、私は倒れてしまい、一番会社に迷惑をかける形でリタイアすることになる。

そのまま私は療養が必要となり休職することが決まった。薬で誤魔化しながら付き合っていた持病も、気が付けば入院直前にまで悪化していた。全てを忘れ、療養に努めようとしても会社に迷惑をかけたという罪悪感が頭の中に常にあり、気が休まることがなかった。その私が徐々に回復出来たのは、間違いなく母の存在だった。

私が倒れる少し前、母が入院した。朝起きると母の姿が見当たらない。テーブルには「限界です。入院します。」と一言だけ書かれた手紙が置いてあった。母はずっと鬱病を患っていた。私の疲弊していく姿が負担になっていたのだろう、症状は酷く悪化していた。私はその姿に気が付いていたが、自らの忙しさにかまけて見て見ぬふりをしていた。恥ずかしながら母を気遣う余裕は全くなかったのだ。それくらい、当時の私は自分のことで手がいっぱいだった。

私が休職して程なく、入院していた母が帰ってきた。私が休職する決断をしたことに余程安心したのだろうか。入院の甲斐もあって見違えるほど元気な姿になっていた。その日まで自分だって大変だったはずだ。しかし、そんな様子など全く見せずに一日中横になって休む私の面倒を見てくれた。

恥ずかしい限りなのだが、私はその優しさに甘えた。療養の意味を履き違え、何をするわけでもない毎日を送り続けた。私はとにかく不安だったのだ。どんなに体調が回復したとしても復帰が望めないこともわかっていたし、体調が不安定な人材を他の企業が雇ってくれるはずもない。そんな不安から、出来る限り今の生活を続けることで現実から目を逸らそうとしていたのだ。

そんなある日、いつものようにインターネットを見ていると、とあるアイドルグループの曲が耳に止まった。「十年後の自分はどこで何をしているのだろうか。大丈夫、可能性は無限大だ」と少女たちは歌っていた。ありきたりな話かもしれないが、その曲は私の胸にとても響いた。年端もいかない少女たちが真剣に仕事をしている姿に心打たれたと同時に、自分自身がとても惨めに思えた。私はいったい、今日まで何をしてきたのだろうか。

母が「夕飯が出来た」と、いつものように私を呼んだ。食卓に着くが私の箸は進まなかった。母にひたすら甘え、ただ食事を与えてもらっている自分が情けなかった。美味しいはずの母の料理だが、どれを食べても味がよくわからなかった。母の料理で泣いたのはその時が初めてだったかもしれない。

その日を境に私は今まで以上に自らの身体を生活に向き合い始めた。先々のことは未定で不安は付きまとうが、立ち止まってばかりではいけない。根拠はないが、目指す先はきっと明るいだろう。そして次こそは、胸を張って母に美味しいと伝えたい。

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