【努力賞】
【テーマ:さまざまな働き方をめぐる、わたしの提言】
高校卒業から働いた私の思い出
岩手県  柴田紗希  26歳

私は地元の高校を卒業して、地元の民間企業に就職した。周りの友人は進学する方が多かったが。私が地元に就職したのには幾つか理由がある。一つは地元に居て親の金銭的負担を軽くしたかったため。私には兄がいるのだが、高校を卒業して県外に就職し、諸準備でお金がかかったのを知っていたから殊更そう思ったのかもしれない。もう一つは、私には大好きな地元の祭があり、それから離れたくなかった。以上のような理由で高校卒業の月から新社会人として働くことが始まった。私はその頃縫製会社の経理事務として雇用され慣れない車出勤と奮闘していたことを思い出す。今思えば学校での各授業は無論大切だったと思うが、それ以上に様々な人と関わる機会を多く持つ事が大切だと強く感じる。

実は、私はその会社を東日本大震災の後に辞めた。4年間勤めた会社を辞めたのには理由がある。一番の決め手となったのは思わぬ配置転換だった。私は経理事務をしたかったのだが、自身の業績がいま一芳しくなく現場へと配置が変わった。直属の上司とはやや禍根を残すことにはなったが、今思えば転職は決して失敗ではなかったと思う。初めて仕事を辞めて、初めての転職活動をした。やや焦る形で重機のリース会社に就職したが、思っていたような業務ではなく二か月という短期間で再び離職をする。

私はこの時誓い、焦らずにしっかり働ける場を見つけようと思うのであった。必死の就職活動の甲斐あって、あまり期間を空けずして今度はタクシー会社の事務として働く事が決まる。同僚は基本60歳以上のベテランドライバーと事務員の女性一人であった。後に私はこの会社を4年で辞めることとなる。後半に綴りたいと思う。私は事務員として雇われたものの、ドライバー不足ということで若干23歳にして自動車学校に通い普通二種免許を取得し、タクシードライバー兼事務として働くことになる。タクシートライバーの仕事は責任が大きいが、それ以上に直接人の役に立つ事が出来てとてもやり甲斐を感じていた。

しかし、会社の都合で運転業務には私は携わらない事になり事務のみの業務となった。折に私は結婚し、また妊娠もし、上手く引き継ぎ体制が取られない事や家庭でのストレスが重なり、産前にして鬱を患い引き継ぎもそこそこに早めの産休を取る。何とか無事に出産し、子供の世話や自分の健康を取り戻すために奮闘する日々が続いた。早く仕事に復帰したくて、子供が6ヶ月になる頃には一時間時短勤務として復帰したが、私の後任の人が入り既に私の居場所はないように感じた。ずっと葛藤していたが状況は変えられないと判断し、悔しさを残しつつも離職する。

また転職活動が始まったが、事情あって私はひとり親になり子供も抱えている立場。今まで以上に慎重に職を探し、現在働いて2ヶ月が経つ。今まで受け身の仕事が多かったが、今度は自分から動いていく仕事になり、向いているかと言えばそうではないかもしれないが、自分なりに奮闘している日々である。

私は今までの間に総じて3回の転職をし、その間に結婚も出産も離婚も経験した。女性は恐らく男性以上に人間関係の構築が難しいと痛感した。しかし、これは学校でも同じ事が言えると思う。先輩後輩の付き合いに通ずると思うが、社会人になると後から年上の人が入社することもあり、全てが全て年功序列ではないこともあるのだと思ったこともある。

最後に、これだけは言いたいことがある。恥ずかしかったり聞きにくいことは誰にでもあると思うが、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」これを改めて自分に言い聞かせたい。いくらパソコンが普及している世の中でも、まずは人間関係の構築があってからこそだと、年を取る毎に仕事をしていく上で強く感じるのである。

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