【 入   選 】

【テーマ:仕事を通じて、かなえたい夢】
大勢の子達と出あってまいた幸せの種
静岡県  湯 浅  弘  79歳

人が動いて働くのよと母に言われた事がある。病気ばかり手術台7回内臓も外に出されガーゼ15枚もつめこまれ一度は死んだようでも母の念力で又この世に。大きく縫合されずのひどい傷あとが2本ある。子供はできませんと医師から言われていたのに夫になると言った彼のかまわないのひとことで結婚した。

結婚前は中学の美術の教師で体をつかって動きまわる事はなかったけれど、結婚して自動車会社の各県内の支社への転勤がはじまった。各任地に3年位なので勤める事は出来ない。1日中家の中に1人の生活は、それまで大勢の生徒に囲まれていたから淋しいというよりもぼけっとしている自分がアホかと思えて何かしなくってはと体中がむずむずしていた。スケッチばかりして歩いた。

働くという事はこの感覚というか、こうゆう事かとわかってきた。転勤して行った地はどちらの県も街中というよりは賑やかな店々のある所からははなれて田や畑や山だった。

家も畑の中のプレハブ三つの中の一つだったけれど皆お勤めで日中は私一人しか家に居なかったから外に出て農家や畑のスケッチをしていると学校帰りの子が寄ってきて不思議そうにしゃがんでみてるから、紙をあげて一緒にかいてもらった。以来友達を呼んできて小学生から中学生も集まった。家には両親は共働きの三交代で働いてみえるとかで淋しいから絵だけでなく宿題も一緒にやる事に自然になっていった。無論塾などではない、時間もきまっていない。ただ約束は、夜夫が帰る車がみえたら帰る事だった。土も日もなかった。親ごさんには一度もお会いした事はなかった。子供達は学校から家ではなくって私のところに帰って勉強がはじまり、机などはみんなのぶんはないからビータイルの床にすわりこんでやっていた。

でも「先生ねぎほしいか」とか「大根ほしいか」ときかれるからそれぞれ一本ずつ決してよその家のを抜いてこない事を約束にぬいてきてくれた。お母さんにありがとうって言ってよと言うと「うん」と一こと。みんな本当に勉強してくれた。浜松の母に頼んで地図や辞書や社会等の参考書を私の本だなから送ってもらった。成績はあがったと本人達が言うから信じましょう。ただ私が絶対頼むと言った事は、1日中働いてくれている両親に言わないで自力のアルバイトで国立なら大丈夫大学に行きなさい。これは後年あの時の子供達は全員大学を出皆公務員や中に1人県知事の妻になった子もいた。皆で一生懸命の日々はみのった。

又奇跡の妊娠の時はどの子の親ごさんかはわからなかったけど朝豪雪の中もくもくとうちの前を雪かきをして下さっていた。どなたかをきいても子供がいつも世話になって本当にありがたくってと名はおっしゃらなくいろいろなお母さんやお父さんがやって下さり、先生は体を大事にたのみますと言って下さった。

息子が誕生した時も勉強しながら、泣いているひまがない程、お兄ちゃんやお姉ちゃん達のかわるがわるのあやしで本当にしあわせだった。息子もドレミファであやされていた。

次の任地に行ってからもやはり近所の子達が宿題を持ってまるでいいつぎをしたようにきて勉強をしていたから。任地は横浜の東名の近くで外国人の子達が何人もいたけれど小学校低学年で日本語と外国語が一緒になって子供達には塾ではないけれど言葉の勉強は最高であの時はアメリカの月面ニュースのもりあがりで私はおにぎりを沢山つくりみそ汁と一緒にお母さん達まできて部屋中大にぎわいで言葉もいろいろ。でも子供達は毎日顔をみていても親ごさんは、はじめて会いいつもありがとうと言われたのだった。

お互い転勤族なのであの子達は本国に帰って日本を思い出し、日本の友とあの太ったおばさんがいた事も思い出してくれているだろうか。いくつもの県でいくつもの出会いと私は喜びの種をまいてきた気持ちがしている。

今でも各地から成長した子達の便りが幸せである。

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