【 佳 作 】
「ちょっと、早く迎えに来てちょうだい、ここが何処だか解らないの。」
公衆電話の向こう側から、祖母の不安そうな声を聴いたのは、その時が初めてだった。
もう20年前の事になる。盲腸で入院していた祖母が、軽い認知症を患っていた。後から医者が説明してくれたが、夜中になると不安になり、帰る家を探すようになったと。私は “おばあちゃん子” で育ってきたので、認知症になった祖母の状況を受け入れがたかったのを覚えている。
当時、「介護保険」という言葉はあまり知られていなくて、認知症ではなく、“呆け” とか “痴呆” とか言う言葉の方が解りやすかった。祖母の認知症が切欠で私は介護の仕事を始めていた。
現在は介護の現場で経験を積んで、国家資格の介護福祉士に合格し、その後ケアマネジャーの資格を取得してからは、主に相談援助の仕事に携わっている。その中で貴重な経験をしたことがある。
当時、70歳後半の女性を担当した時、その人には50歳近くの息子がいた。彼は中学校を卒業して40年以上、社会に関わった事がなかった。所謂、ニートだった。彼が私と関わらなければいけなかったのは、病院に入院した母親の面倒を看ないと今後の自分の生活が成り立たなくなるからだった。
中学校卒業以降はまともに人とも話していなかった彼は、社会性に乏しく、電車が苦手で移動は専ら自転車を使用していた。私は彼のお母さんの支援をするのが仕事だったが、並行して彼の社会復帰を支援していくことも私の課題になった。しかし、彼は自ら相談してくれることは少なかった。
母親の支援が半年過ぎた頃に、彼が職場の相談窓口に訪れ、私に相談してきた。
「あのー私がこれから働くにはどうすればいいですかね?」
一瞬私はたじろぎ、しかし、すぐに彼にこう質問した。
「どうして今になってそう思ったのですか?」
そうすると彼は、
「色々悩んでいたのですけど、このまま母親がいなくなってしまったら、私はどうやって生きていけばいいのか?解らなくなったのです。働かないとだめだと思うようになりました。」
彼は自らの殻を破り、私に相談をしてくれた。私はそのことがとても嬉しかった。彼の母親も彼の社会的な自立を強く望んでいた。40年と言う月日の中で、母親もどんな助言をしたらいいのか?解らなかったのだと思う。
私は彼がどうしたら、社会と結びついていけるかを色々な機関に相談した。試行錯誤している中で、自治体が取り組んでいる、「障害者基幹相談支援センター」の存在を知った。そこは身体、精神、知的、それぞれの障害に該当する人に職業訓練を提供し、社会復帰を支援している機関だった。そこにつないでからは、彼は、「車の運転免許を取得するにはどうしたらいいか?」「仕事を探す場所はどういうところに行けば教えてくれるのか」など、一生懸命、自立に向かって取り組んでくれていた。
私が転職した事を機に、この親子の支援は、他の担当者にバトンタッチした。それから2年半が過ぎた頃、彼のお母さんが老人ホームに入所した事を聞いた。私は仕事帰りに母親がいる施設に会いに行った。2年以上支援してから離れていたが、彼女は私の事をしっかり覚えていてくれていた。
「息子さんはどうしていますか?」と聞いた所、地元の製菓工場で働き始めた事を聞いた。彼はしっかり、社会に帰属し、働き始めていたことを知った時、今まで味わったことない嬉しさがこみ上げてきた。
相談支援の仕事に携わって10年以上経つ。今、私が取り組んでいるのは、「家族支援」だ。介護施設で入所者の支援をしている傍らで、その高齢者を支えている家族に視点を置いている。核家族化と高齢化が進んでいる現代で、「家族」というカテゴリーがとても弱体化している事に気づく。父親、母親を仕事しながら介護しているほとんどの娘や息子が介護離職してしまい、貧困や虐待などに繋がっている。
支えている家族が元気でいる事こそが、今の日本の高齢化社会にとって一番大切だと思っている。私はそんな介護や障害を持つ家族の支援がもっと気軽に同じ目線で立って出来るような相談窓口を作っていきたいと考えている。
祖母が亡くなって9年が経つ。おばあちゃん子だった私が、この仕事を天職に出来たのも、公衆電話から聞こえたあの祖母の不安な声を聴き、病院に迎えに行った祖母の安堵の顔が私の糧になっている。