【 佳   作 】

【テーマ:現場からのチャレンジと提言】
教職を志す若者へのエール
岐阜県  後 藤 喜 朗  55歳

「もの凄い量だね。一体いつになったら終わるのかな。」母親の遺品整理をしながら弟が呟いた。母親が亡くなって以来、私と弟は母親宅の整理に明け暮れていた。

「あれこれ何だろう。」と突然弟が叫んだ。弟の手には年季の入った一冊の手帳が握られていた。「お兄ちゃん、この手帳、何か年表が書いてあるよ。」「どれどれ見せてごらん。」と私は弟に促した。その手帳を見た途端、私はハッとした。驚くことに私と弟の将来の年表が記されていた。その年表によれば、私は23歳で就職し教員になるということであった。私たち子どもに託した夢だったのだろうか。それは、ある意味「未来予想図」だったかもしれない。思い当たる節がある。我が家は、自営をしていたが祖父が事業に失敗し、思い出が一杯詰まった実家は他人の手に渡った。残ったものは、莫大な借金だった。借金返済のために母親は、昼夜を問わず馬車馬のように働いた。辛さや苦しさは想像を絶するものであったに相違ない。だが母親は決して弱音を吐かなかった。いや寧ろ笑顔で私たちを勇気付けてくれた。

「教員になれ。人の役に立つ職業に就け。」というのが、母親の口癖であり、遺言でもあった。母親の遺志もあり、物心ついた頃から私は教職を志すようになった。大学入試では苦労をしたが何とか教育学部に合格し念願の教員になった。当時の私の憧れは金八先生だった。子どもたちと共に歩み、常に子どもたちのことを考え、子どもたちに全力投球するそれが私の教師の理想像であった。笑顔で教壇にたち授業を行う自分をイメージしていた。しかし、現実はそんなに甘くはなかった。私は小学校の教員志望であったが、採用されたのは中学校であった。新任として配属された中学校は、所謂生徒指導困難校であった。

授業が始まって教室に行くと数名の生徒が不在であった。まずは、生徒を探すことから始まる。授業エスケープである。話しをしてもまったく聞かない。力の無さを自覚はしていたが、次第に私は心身共に疲労していた。私は、日々生徒指導に明け暮れていた。連日の家庭訪問や保護者対応等で精神的にも肉体的にも限界であった。

ある日校長が私の授業を覗きに来た。私のことが心配だったのだろう。一番手を焼いていた生徒が寝ていた。私は、その生徒を徹底的に叱った。いや怒ったと言った方がより適切な表現なのかもしれない。私は校長の前でいい格好をしたかったのだ。

放課後、私は校長に呼ばれた。大変な生徒と勝負をしているという誇りがあった。正直私は誉めてもらえると確信していた。校長室へ入るや否や叫びとも言える声が飛んできた。

「お前は本当に子どもを大切にしているのか。寝ている子どもを叱り飛ばしただろう。体調が悪かったのかもしれないじゃないか。どうしてもっと子どもに寄り添わないのだ。寝ているような授業をしている教師がいけない。」

頭をガツンと叩かれたような気分であった。後で聞いたのだが、その子の家は父親が急死し、母親が夜遅くまで働くようになった。家事は全部その子がやっていた。昨夜も遅くまで幼い妹の面倒を見ていたという。私は、どうしてもっとその子に寄り添えなかったのかと悔やんだ。自分と同じ境遇だったのかと猛省した。

私は、現在小学校に勤務をしている。今この出来事を思い出すと、穴があったら入りたい気分である。しかし、この出来事は私の教師としての礎になっている。子どもたちの状況は千差万別であり、抱えているものも一人一人違う。そうした子どもの笑顔を生み出すために全勢力を子どものために注ぎたいと思う。教職を志す若者が激減しているというデータもある。教員採用試験の倍率が一倍台という都道府県もある。働き方改革が叫ばれている中で教職員の多忙化解消が喫緊の課題となっている。21世紀を生き抜く子どもたちのために教職を志す若者を一人でも多く生み出すことが我々教職員に課せられた最大のミッションである。

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