【 奨 励 賞 】
20代も終わろうとしていた頃、東京でいくつもの大学や専門学校、予備校などの講師を掛け持ちしていた私は、故郷に戻らざるを得ない境遇に陥った。大学ではゼミも担当し、専門学校ではただ授業をするだけでなく、生徒たちとさまざまな行事に参加して心を通わせ、予備校では看板講師ともてはやされて、たくさんの受験生が講座を申し込んでくれた。毎日、朝から夜遅くまで、校舎を移動しながら教壇に立ち続けたが、若かったあの頃は疲れることなど知らず、ただひたすら働くことに夢中になっていた。
そんな充実した日々に別れを告げて故郷に帰ると、そこは過疎の町。駅前には人もまばらで、朝晩の通勤通学時に列車が到着する時だけ、わずかな渋滞が起こる。その町で、教壇に立って生徒たちに授業をすることしかしてこなかった私に、何ができるだろうと考えた。どんな境遇にあっても、生きていくためには、その糧を自分で稼がなくてはならない。
ある日、町を歩いていると、小学生、中学生らとすれ違った。小さな町でも、そこには子どもたちがいる。それまでの経験を生かせる仕事と言えば、学習塾の講師だろうと、早速、小さなテナントを借りて塾を開いた。
何百人も入る大教室でマイクを使って授業をしていた私の前には数人の生徒しかおらず、口うるさい地方の人たちには、「都落ち」などと影口も散々叩かれた。それでも塾は生徒たちとの距離が近く、東京の大教室での授業とは違った新鮮な気持ちで授業に臨め、当時はまだ一般的ではなかった個別指導の手法も取り入れた指導を行うと、あっという間に教室に入りきれないくらいの生徒が集まる人気塾になった。
学習塾は生徒が学校から帰ってくる夕方から始まるので、昼間は受験参考書や勉強のノウハウをまとめたハウツー本なども書いて出版すると、増刷される本もあって、故郷に帰っても充実した日々を送れるようになった。
30になる手前ですべての仕事を失い、故郷に戻って、「これからどうしよう」と仕事探しに悩んだあの日々は、いまふり返ると、新しい人生を切り開いていくために必要な試練だったように思う。そしてそれがあったからこそ、もがき苦しみながらも自分だけの、自分らしい生きる道を見つけることができたのだ。試練を乗り越えたところに見つけたいまの仕事は、天職のようにも思う。
働いていれば、失敗も挫折もあり、もしかしたら私のように、その職を失ってしまう事態に巻き込まれてしまうかもしれない。いまは順風満帆の人生を歩んでいる人にも、天はさまざまな試練を与えてくるはずだ。そんな試練に直面したら、それは、人が大きく成長していくために必要なものと受け止め、あせらず、腐らず、怒らず、いつかまた日が差してくることを信じて、前を向いてまっすぐに歩いていこう。試練が人を育て、また私たちの前には、乗り越えられない試練はないと心に刻んで。