【 奨 励 賞 】
初めて働く日を迎える人たちへ。私にもその日がありました。アルバイトもたくさんしたけれど、初めて社会人として働く日は特別でした。生まれ育った町から大学進学で県外に移り、就職のために上京した私。就職活動も夜行を使い、移動だけで半日近くを費やしての挑戦。私の就職を一番喜んでくれたのは母でした。その日のために用意したスーツやバッグやパンプスに化粧品。どこのスーツか何色の口紅だったかも忘れたけれど、私はその日、生まれて初めて7センチヒールのパンプスを履きました。当時はバブルと言われる時代で私の就職先は広告代理店。肩パッドの入ったボディコンと言われるスーツに身を固め、自分の全てを7センチに支えてもらったのです。
専門職として採用された私には早速残業の日々が始まり、連日タクシーで帰宅する頃には足はむくんでパンパン。7センチは遠のきました。今ではマウスでクリックすれば済む作業に、コピー機まで何往復もしての切り貼り作業。スマホもパソコンも携帯電話すらない時代、各デスクの上に鎮座する固定電話の応対も新入社員の仕事とされていました。覚えることも多く、毎日が修行のようでした。
毎年新人が入り、覚えるだけでなく教える部分も増えていきました。更に私は、当時その言葉すらなかったセクハラとパワハラの合併症にも悩まされていきました。そんな頃です。母が脳出血で倒れました。当時の会社には看病のための制度は何もなく、週末や有休を使って片道を新幹線で3時間、更に1時間以上をかけて母の看病に通う日々が始まりました。10ヶ月の闘病を終え、母はリハビリ病院に転院しました。有休もなくなり少し仕事に専念しなくては。そう思った矢先、母は病室での事故で亡くなりました。リハビリ病院の院長は病気の再発だと言い切り、初めて死亡者が出たのに遺族は邪険に扱われました。当時は病院との裁判も親族間で話し合っていました。母が戻ってくるなら何でもしたい、でももう戻ってはこない。会社を辞めて看病に専念すべきだった。そう思いながら会社に戻ると、会話の殆どを性的表現に変換する上司も、話す時は私の太腿に手を置く上司も、触るのは当然の儀式と思っている上司も、母の事で憔悴している私には何もしませんでした。これも時間が過ぎれば戻ってしまうだろう。私は誰のために、何のために働くのかわからなくなっていました。
得意先に企画プレゼンをするため、私は久しぶりに7センチヒールを履きました。得意先が企画を喜んでくれれば徹夜の疲れも吹っ飛び、制作が始まれば現場が好きだと実感しました。この仕事を好きだから頑張れる、そんな仕事をしていきたい。私はそれから正社員、フリーランス、アルバイトと会社の名前にもこだわらずいろんな形で仕事をしてきました。分野の違うことにも挑戦し、自分のしたいことには何でも挑戦してみようと考えたのです。嬉しいことは辛いことと同じくらい用意されている。今ではそう思えるようになりました。人生はまだまだ長い、子供のために働き詰めで亡くなってしまった母の分も挑戦していこうと思っています。
社会に出ようと思った時、挑戦しようと思った時、自分の中で自然に湧き上がる「頑張ろう」という気持ちを忘れないでください。私は7センチを忘れない。