【 奨 励 賞 】

【テーマ:現場からのチャレンジと提言】
教育現場でのチャレンジと変化
静岡県   部 信 男  61歳

私はこの4月から、私立高校で数学と英語を教えている。中学・高校で数学・英語の免許状を持ち、教えている教員はそう多くない。以前は数学科の需要の方が多かったが、最近では英語が勝っている。

今、小学校の先生方は、既存教授科目に、「英語」が加わってきている。若い世代が、国際社会で生きるのに困らないように、更には、積極的に国際社会でリーダーシップを取っていくことができるようにと、外国語教育に熱心な教育政策が立てられている。これは、教員にとって、大きなチャレンジである。

私は、大学で電子工学を専攻し、工業の教員免許状を取得した。右肩上がりの景気で、物づくりに拍車がかかり、電気・電子系は人気分野だった。到来するコンピュータ社会のさきがけで、就職に困ることはあまりなかった。しかし、教育の分野、特に校内暴力は当時の社会では深刻さを極めていた。また、国外では東アフリカの旱魃で、エチオピアの飢餓について連日報道され、深刻だった。

大学を卒業し、高校教諭になり、2年生の担任、3年生の担任を経、無事、教え子を卒業させた。私も同時に、高校を退職し、青年海外協力隊・理数科教師になり、東アフリカ・ケニアに赴いた。電気も水道もガスも無い生活を強いられ、現地ケニア人の中高生に数学・物理・化学・体育を教えた。暗記主義を打破しようと、実験を生徒に体験させ、理科を理解させたく、理科実験棟の設立に奔走した。2年間の任期だったが、生徒や学校の意向で、4年間の活動になった。24時間ボランティア生活の20代後半だった。

「仕事を辞めてまで、なぜアフリカに行く必要があるの?」そんな私の価値観を問う質問を何度もあびせられる時代だった。終身雇用の時代での転職、海外旅行が珍しい時代でのアフリカ赴任。専門教科枠を越えての指導。異言語での教育。異文化でのサバイバル。それらが私の教員としての礎を作っていった。

帰国し、高校で数学を教える際、国際人の育成と考え、日本語ではなく英語で教えた。わずか二週間ほどで、保護者からのクレームで、校長先生からストップがかかった。それを機に、英語の免許状を通信教育で取得し、堂々と英語教員になった。今でこそ、イマージョンプログラムやオールイングリッシュの授業が推進されるものの、当時はその考えすら無く、価値観の変化と極端さに驚いている。

「これからは日本語の時代だから」と尊敬する先生に助言をいただいた。理系の自分にとって日本語への躊躇はあったものの、通信教育を即、スタートさせ、その後、縁あって、大学で日本語を教えることになった。自分の専門にこだわることよりも、目の前の留学生たちが日本語で苦しんでいる姿を打破してあげたいと思う気持ちが上回り、自然に力がこみ上げてきた。ボランティア観なのだろう。阪神淡路大震災が起こった。30代後半で結婚もしていたが、神戸大学大学院を受験し合格。国際協力の研究を推し進めるのと同時に、ひび割れた校舎で、教育支援をしたかった。命の大切さと向き合い、『ボランティア学のはじまり』という本の出版に携わることもできた。ボランティアや国際協力への意識は、この4半世紀で、大きく変化した。

専門教科以外を教える負担は大きい。消極的な姿勢になってしまのは自然だ。しかし、私のような教員もいる。どうか前向きで、学ぶ姿勢を児童・生徒・留学生・家庭・地域・教員ともに、分かち合ってもらいたいと願う。一方、言語活動で費やす時間は多く、逆に、失われた教科の時間をより大切にし、調和がとれた教育を展開すべきと警鐘する。日本人としてのアイデンティティが問われる時代が、異文化とのコミュニケーションが確立するほど、衝突も起こり得る。日々、変化を予見し、自己研鑽する姿勢の大切さを実感している。

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