【 奨 励 賞 】
介護保険制度が導入された年に、私は特別養護老人ホーム(以下特養)の看護師として就職した。以来、60歳で定年を迎えたが67歳になる現在もフリーランスとして数か所の特養で働いている。当初から、介護の質の向上が謳われていたが、果たしてこの間に質が向上したであろうか。年を追う毎にいずこの施設も介護職員の離職率が上がり、慢性的な人員不足に陥っている。近年見直されてきたとはいえ、介護職員の薄給や仕事のきつさ等が重なり、魅力の乏しい職場になっているきらいがある。虐待や拘束が法律で禁じられているとはいえ、精神的なストレスのはけ口にした事件も耳新しい。大概の特養では、4月になれば初々しい新人が入職してくるが、1年経ってその半数が残ればよいほうである。退職する理由はさまざまであるが、一方現場に魅力を感じ頑張っている職員も少なくない。その差はどこから来るのであろうか。
若年性認知症(前頭側頭型認知症)の診断を受けたテルコさんは、暴力と拒食のために精神科病院に入院していた。鼻からチューブを通されそこから栄養を受けていた。テルコさんは身長155cm。体重27kg で極端に痩せていた。疾患により終日「ごめんなさい」を繰り返し、また眠る時間以外は腹筋運動を止めないので、ベッドからの転落防止のために胸腹部をベルト固定されていた。そのテルコさんを特養で引き受けた。チューブを抜去し体動の激しいテルコさんに食べさせるのは並大抵の苦労ではなかった。しかし、「ごめんなさい」しか発しなかったテルコさんは徐々に単語を喋るようになり、何より自力歩行できるまでに変容した。これは一重に介護の力である。
98歳のツルさんは肺炎で入院し、1 . 5か月後の退院の際に『胃ろう』を勧められた。家族はそれを受け入れられず、死を覚悟で特養にツルさんの身を委ねた。ツルさんの体は左に傾き、舌も左口角から出たままの状態で、食物は殆どこぼれ出てしまった。体勢を整え根気よく食事の介助をし、遂に退院3か月後には自力で8割程摂れるようになり、失っていた言葉まで出せるように変貌させたのも職員の関わりに尽きる。
骨折後、手術を受け2か月後退院したアキさんは、自力で食べる事が出来なくなり、発する言葉は独語(一人でぶつぶつ言う)、さらに目まで見えなくなっていた。そんなアキさんに丁寧な介護を続けた結果、1か月後には視力が回復し単語でのやり取り迄復活させ、さらに自分で食べるに至らしめたのも介護力である。
心不全症状の現れたツヤさんに入院を勧めても頑として受け入れず「あんたらに見てもろうて死ねたら本望や」とまで言わしめたのは、良好な人間関係所以である。
肺がんが判明した83歳のトメさん本人と娘さんは、一切の治療を受けず自然死を選択した。痛みは無いものの徐々に食べられなくなり、臥床したままで声を出すにも努力がいるようになった。帰り際に挨拶に行った私に「外は暗いだろうから気を付けてお帰りよ」と、蚊の鳴くような声で気遣ってくれる優しさ。
このように終の棲家と言われる特養では、利用者と職員のドラマがある。私が特養に魅せられなかなか辞められないのは、こうした理由からだ。そのドラマをどう展開させてゆくかは、職員の価値観・人間観・倫理観等に規定される。24時間・365日昼夜を問わず利用者と関わりを持つ介護職員においては、私より広く深みのあるドラマを展開できるであろう。若い人達には、笑顔あふれる生き生きしたドラマの展開を期待してやまない。